タイトル皇太子・司馬遹が謀殺される
賈皇后らがクーデターで殺される

(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)

晋朝において299年末から翌年3月に起きた皇太子・司馬遹(しばいつ)の廃立と殺害は、八王の乱の再開につながる大事件だった。

賈皇后(恵帝の妻、賈南風)には男子が出来なかったので、謝才人(しゃさいじん、恵帝の側室)の産んだ、司馬遹が290年8月に皇太子となった。

賈皇后と司馬遹は仲が悪く、それを心配した賈皇后の母・郭槐はしょっちゅう「司馬遹に愛情を持ちなさい」と娘に論していた。

だが296年に郭槐が亡くなると、2人の仲はさらに悪化した。

司馬遹は、権勢をふるう賈謐(賈南風の姉妹の子、つまり賈皇后の甥っ子)を嫌っていた。

これに対し賈皇后と賈謐は、賈皇后が妊娠したと嘘をついた上で、韓寿の子・韓慰祖をこっそり宮中に入れて、司馬遹に代えて皇太子にしようと謀った。

韓寿は賈謐の父親で、賈皇后の姉妹の夫である。
賈謐は賈氏に養子入りした人で、韓慰祖は賈謐の弟にあたる。

司馬遹は、母の謝淑妃(謝才人)が肉屋の娘だったからか、商売好きで、宮中で肉屋を開店し自ら売った。

他にも野菜や鶏も売った。

江統や杜錫(杜預の子)はこれを諫めたが、司馬遹は聞く耳を持たなかった。

299年12月に、司馬遹は重病の長男のために祈禱を行わせた。

これを聞いた賈皇后は一計を案じ、12月28日の夜に「恵帝が汝に会いたがっている」との手紙を司馬遹に送った。

翌日に手紙を読んだ司馬遹は恵帝に謁見したが、その直後に恵帝の命令として三升の酒を飲むよう言われた。

(※恵帝は妻・賈皇后の言いなりで、賈皇后が皇帝の命令を勝手に出す状態が続いていた)

司馬遹は断わったが、賈皇后の侍女の陳舞が「天子が酒を賜っているのに飲まないとは、酒の中に悪いものでも入っているとおっしゃるのですか」と言うので、仕方なく飲み泥酔状態となった。

これを待っていた賈皇后は、黄門侍郎の潘岳に命じて作らせていた文章を、恵帝の命令として泥酔している司馬遹に写させた。

その内容は、「陛下も賈皇后も自殺すべきである。自殺しないならば私が始末する。」という危険なものであった。

司馬遹は酔って意識がはっきりしないままに、これを書いてしまった。

12月30日に、この司馬遹が書いたものを理由として、司馬遹に死を賜わるとの詔勅(恵帝の命令文)が出た。

張華と裴頠(はいぎ)が司馬遹のために弁明し、朝廷での議論は夕方まで続いた。

膠着の中でクーデターが起こるのを恐れた賈皇后は、妥協して司馬遹を殺すのではなく庶人に落とすことにし、恵帝の裁可が出た。

このあと司馬遹は金墉城に幽閉され、その母は誅殺された。

賈皇居は司馬遹を担ぐクーデターが起きるのを恐れ、毒薬を宦官の孫慮に持たせて司馬遹の所に行かせた。

司馬遹が毒薬を拒むと、孫慮は司馬遹が厠に行ったところを殴殺した。

司馬遹の助けを呼ぶ声が外まで漏れ聞こえたという。享年23歳であった。

司馬遹の廃嫡と暗殺は、賈皇居への人々の怒りを呼び、下に書くクーデターを招いた。

司馬遹が廃嫡された時、宮中にいる司馬雅、許超、士猗らは、賈皇居を廃して司馬遹を復位させようと謀った。

彼らが協力者として目を付けたのが、車騎将軍などの重職につく司馬倫であった。

彼らはまず司馬倫の腹心である孫秀を説得し、孫秀を介して司馬倫に協力を承諾させた。

だが司馬倫は、司馬遹と仲が悪くて怨まれていたから、司馬遹が復位しても自分の得にならないと考えた。

そこで司馬倫と孫秀は、賈皇后に司馬遹を殺害するよう仕向けた上で、司馬遹の仇を討つという大義名分を掲げて賈皇后を倒すことを計画した。

思惑通りに賈皇后が司馬遹を殺したので、300年4月3日に、司馬倫、孫秀、閭和(りょわ)らは兵を率いてクーデターを決行した。

賈謐は斬られ、賈皇后は捕まって幽閉された。

賈皇后の一族や党派は逮捕され、牢獄において拷問が加えられた。

また司馬倫は、司馬遹派の張華と裴頠を恨んでいたので、捕えて三族ともども殺した。

クーデターの翌日(4月4日)に賈皇后は金墉城に移され、4月9日に毒殺された。

クーデターを成功させた司馬倫は、相国などの最重要職に就いたが、人気取りのために数千人に爵位を与える大盤振る舞いをした。

この爵位の大盤振る舞いは、かつて権力を握った楊駿や司馬亮が行ったことの再現であった。

司馬倫は輔政(暗愚な恵帝の代わりに政治をする)を始めたが、司馬倫も凡庸な人なので、腹心の孫秀が中書令に就き実質的な最高権力者となった。

(2025年11月19日に作成)


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