司馬允の挙兵は失敗 司馬倫は禅譲を強制し皇帝になる(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)
300年8月に、司馬炎(武帝)の子で驃騎将軍の司馬允が、司馬倫の政権に対して挙兵した。
司馬允は沈着・剛毅な性格で、部下の心服を得ており、司馬倫が帝位を狙っていることも察知していた。
(※このときの皇帝は、傀儡の恵帝(司馬衷)である)
挙兵した司馬允は、恵帝のいる宮城を目指したが、門が閉じていて入れないので、方向を変えて司馬倫のいる相国府を攻囲した。
(※司馬倫は相国という国政を担う職にいて、府を開いていた)
陳徽(ちんき)が司馬允軍に加わった。
宮中では、陳徽の兄で中書令の陳準が司馬允に味方して、恵帝に「白虎幡を出して戦闘をやめさせるべきです」と進言した。
白虎幡とは皇帝の意思を伝える旗の1つだが、実は戦闘を止めるさせるのは騶虞幡であり、白虎幡は逆に戦闘を鼓舞するものだった。
恵帝の暗愚さを知る陳準は、故意に違う旗を出させて、司馬允を勝たせようとした。
伏胤が白虎幡を持って宮中から出たが、この男は司馬倫の子・司馬虔(しばけん)と親友だった。
だから司馬倫側に味方し、司馬允に会うと「詔勅を持ってきました。皇帝はあなたを助ます。」と嘘をつき、司馬允が詔勅を受けとろうと無防備な姿勢をとった時に襲って殺害した。
こうして司馬允の挙兵は失敗し、司馬允に連座して数千人が逮捕され殺された。
この時に殺された中には、孫秀に怨まれていた潘岳や石崇もいた。
孫秀は司馬倫の最側近で、司馬倫政権の実質的な最高権力者だった。
孫秀は叩き上げの人だが、潘岳はかつて孫秀が小役人だった時期に顎で使い、しばしば鞭で打っていた。
石崇が孫秀の怨みを買ったのは、次の事情があった。
石崇は大金持ちで大勢の妾を抱えていたが、その中に笛の名手の緑珠がいた。
出世して権力を得た孫秀は緑珠を所望したが、石崇は断わったので、怨まれたのである。
石崇は逮捕されるさい、かたわらにいる緑珠に「お前のせいで罪を被った」と言った。
緑珠は泣きながら「死なせていただきます」と言って、飛び降り自殺した。
緑珠は後世に詩や小説の題材となり、その結果、歌姫や美女の代名詞となった。
ちなみに、処刑された石崇の財産は没収されたが、その財産には奴隷もあり、800人余りに上った。
司馬允のクーデターを鎮圧した後、孫秀は主君の司馬倫に「九錫」(皇帝と等しくなるような特権)を加えることを朝廷で提案した。
反対する朝臣はおらず、唯一人だけ反対した吏部尚書の劉頌(りゅうしょう)は解任されてしまった。
翌301年に入ると、司馬倫と孫秀の密命を受けた趙奉が、「司馬倫は西宮に入るべし」という亡くなった先祖・司馬懿のお告げを伝えた。
東宮は皇太子の住居で、西宮は皇帝の住居(宮城)だが、このとき司馬倫は東宮に住み相国府を開いていた。
(※つまり司馬倫と孫秀は、司馬倫が皇帝になれ、という司馬懿のお告げを捏造した)
侍中の司馬威が、恵帝(司馬衷)から璽綬(皇帝が持つ印璽)を奪い、禅譲の詔勅を作った。
このとき禅譲の詔勅を書いたのは陸機といわれている。
こうして恵帝は位を譲ることになり、301年1月に司馬倫が皇帝となった。
恵帝は同年1月10日に太上皇に祭り上げられ、金墉城に幽閉されて、そこは永昌宮と改称された。
孫秀は中書監に、司馬威は中書令に、張林は衛将軍に、それぞれ昇進した。
1月17日に司馬臧(しばぞう)が殺された。
司馬臧は殺された皇太子・司馬遹の子で、皇太孫(恵帝の後継ぎ)に選ばれていたが、司馬倫が用済みの存在として殺したのである。
司馬倫の第一の側近である孫秀は、司馬倫が皇帝になると中書監だけでなく驃騎将軍や侍中も兼任し、司馬倫に代わり詔勅を出すほどに権力をふるった。
孫秀は元は小役人だったが、文才があるので文盲の司馬倫の下で出世した人である。
孫秀は謀略の才もあり、賈氏(賈皇后ら)を倒すクーデターや、恵帝から司馬倫に禅譲させる策謀を主導してきた。
余談になるが、孫秀と司馬倫は天師道(五斗米道)の信者だったようだ。
孫秀の子孫の孫恩は、東晋の時代に宗教反乱を起こしている。
孫秀は野望が強く、自分を皇族にしようとした。
まず同じ孫氏である孫旂(そんき)の孫である羊献容を、300年11月7日に恵帝の妻・皇后とした。
なお羊献容の実家である泰山部の羊氏は、羊祜や羊徽瑜(司馬師の妻)を輩出した名族である。
さらに孫秀は、息子・孫会の妻に、恵帝の娘をもらった。
いっぽう、衛将軍となった張林は、孫秀とソリが合わなかった。
ちなみに張林の曾祖父は、後漢末に黒山賊の頭領として暴れた張燕である。
張林は、司馬倫の子で皇太子となった司馬荂(しばふ)に、「孫秀を殺しましょう」と誘う手紙を送った。
ところが司馬荂はそれを父・司馬倫に見せたので、張林は処刑された。
(2025年11月20日に作成)