タイトル司馬倫は三王(司馬冏ら)に倒され恵帝が復位する

(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)

301年1月に皇帝となった司馬倫と、その右腕の孫秀が恐れたのは、各地に王として封じられて領土を持ち軍隊も持っている皇族(司馬一族)だった。

特に許昌にいる司馬冏(しばけい)、鄴にいる司馬穎(しばえい)、長安にいる司馬顒(しばぎょう)が強力だった。

301年3月、司馬倫の即位のわずか2ヵ月後に、司馬冏は、予州刺史の何勖(かきょく)や龍驤将軍の董艾らと挙兵した。

司馬冏は、司馬倫の腹心である孫秀の打倒を掲げた檄文を、各地に送った。

(※司馬倫は文盲の凡人で、補佐役の孫秀が最高権力者となっていた)

司馬穎は、腹心である盧志(盧植の曾孫)の意見に従って、司馬冏の挙兵に呼応し、兗州刺史の王彦や冀州刺史の李毅らに命じて出陣させた。

長安の司馬顒は、始めは司馬倫の側に立っていたが、司馬冏と司馬穎の軍が盛んなのを聞くと、立場を変えた。

以上の司馬冏、司馬穎、司馬顒の3人の王が、司馬倫打倒の中心となったため、この内戦は「三王起義」と呼ばれている。

中国の南東にある揚州では、州人が皆、司馬冏に呼応しようとした。

ところが揚州刺史の郗隆が止めた。

これに怒った将兵は、郗隆を攻め殺し、首を司馬冏に送った。

司馬倫側は、司馬冏に対しては、孫輔(孫秀の子)や張泓(ちょうおう)や司馬雅が兵を率いて出撃した。

司馬穎に対しては、孫会(孫秀の子)、許超、士猗(しい)らが兵を率いて出撃した。

4月になると、司馬穎軍が司馬倫軍に湨水(げきすい)の戦いで大勝し、司馬穎軍は司馬倫らのいる首都・洛陽に迫った。

洛陽に逃げ戻った孫会・許超・士猗らは、孫秀と今後どうするかを協議したが、結論は出なかった。

4月7日、洛陽において左衛将軍の王輿(おうよ)が、尚書の司馬漼(しばさい)と共謀して宮中に攻め入り、孫秀・許超・士猗らを殺した。

王輿は宮中において、皇帝・司馬倫の退位の詔勅を作らせて、太上皇として排除されていた司馬衷(※先帝である恵帝)の復位を決めた。

金墉城に幽閉されていた司馬衷が救出されて宮中に入り、群臣たちは平伏して謝罪した。

そして今度は司馬倫が金墉城に送られた。

復位した恵帝の大赦令が4月9日に発布され、司馬倫には自殺が命じられた。

百官のうち、司馬倫派は全員が職を解かれた。

この日に司馬穎が洛陽に入った。

4月15日に司馬顒も洛陽入りし、6月2日に司馬冏も洛陽に到着した。

司馬冏が遅れたのは、司馬倫側の張泓らを攻撃していたからである。

張泓らが降伏してこの内戦は終わったが、結局、この内乱で10万人近くが戦死した。

5月に恵帝の命令で、司馬倫に加担してきた司馬威が誅殺された。

内戦で勝利した司馬冏、司馬穎、司馬顒は、それぞれ大司馬、大将軍、太尉に昇進した。

司馬冏と司馬穎は、「九錫」(皇帝と等しくなるような特権)も与えられた。

司馬穎は洛陽に留まらず、自らの拠点である鄴へ帰ったが、これを勧めたのは側近の盧志だった。

盧志はこう助言した。

「司馬冏殿はあなたと共に朝政を輔弼しようとしていますが、両雄並び立たずという言葉があります。

あなたの母の病気を理由にして、鄴へ帰って親孝行したいと言い、朝政を司馬冏殿に委ねて、天下の人望を集めるべきです。」

司馬穎は鄴に戻ると、九錫を辞退し、司馬倫を倒す戦争に参加した者たちを公侯に封ずるよう上奏文を出した。

また戦死者たちの遺体を埋葬させた。

こうした人気取りのパフォーマンスは、盧志の入れ知恵だった。

首都・洛陽に残った司馬冏は、(恵帝は暗愚なので)晋朝の最高権力者となったが、一緒に挙兵した何勖と董艾を重職に就け、禁軍と枢機を任せた。

301年8月に司馬冏は、兄である司馬蕤(しばずい)を庶人の身分に降とし、三王起義の時に孫秀らを殺した左衛将軍の王輿を処刑した。

司馬蕤は、司馬冏に開府を要求したが容れられず、それが不満で恵帝に司馬冏の専横を密告し、王輿とクーデターを計画した。

これがバレたのであり、司馬蕤は流罪となって、司馬冏の命令で暗殺された。

302年3月に皇太孫(恵帝の孫で、後継ぎに指名された者)となっていた司馬尚が亡くなり、恵帝の子孫が絶えた。

そこで司馬冏は、恵帝の弟・司馬遐(しばか)の子で8歳の司馬覃(しばたん)を恵帝の後継者に選び、自らはその後見役となった。

絶頂気分の司馬冏は、驕り高ぶり我を忘れた。
酒色におぼれ、政治を怠り、恵帝に断りなく行政命令を下し、自分の気に入る者のみを登用した。

このため各方面から批判が相次いだが、司馬冏は聞く耳を持たなかった。

翊軍校尉として洛陽で働く李含(りがん)は、司馬冏の側近の皇甫商と憎み合う関係で、讒言されるのではと恐れた。

そこで李含は、恵帝の密詔(密命)を騙って、司馬冏打倒に司馬顒を動かそうとした。

司馬顒はこれに応じ、次の上奏文を恵帝に送った。

「私は10万人の兵を率いて、司馬穎、司馬歆(しばきん)、司馬虓(しばきょく)と洛陽で合流しようと思います。司馬冏を廃して、司馬穎に輔弼役を任せるよう求めます。」

司馬顒は李含を総司令官に任命し、洛陽に進軍させた。

また司馬顒は、使者を司馬穎の所に送り、挙兵に加わるよう求めた。
盧志は自重をすすめたが、司馬穎は参加することにした。

302年12月22日、司馬顒の挙兵を知った司馬冏は百官を召集して会議した。

尚書令の王戎は、「司馬顒と司馬穎の勢いが盛んなので、あなたは職を辞して政権を譲るべきです。そうすれば身の安全は保てます」と司馬冏に献言した。

これに対し葛旟(かつよ)が怒って、「漢朝でも魏朝でも、職を辞して政権を譲り命を保った者が1人でもいたか。そのような意見をする者は斬る。」と言った。

その剣幕に百官は色を失った。

李含の部将・張方は、進軍して洛陽に近づくと、洛陽にいる司馬乂に対し「司馬冏を討て」との檄文を送った。

これを知った司馬冏は、董艾に命じて司馬乂を攻撃させた。

司馬乂は兵を率いて宮中に入り、恵帝を奉じて司馬冏を攻撃した。

この洛陽城内での戦いは、3日間の激戦となって、司馬冏が敗れて捕まった。

恵帝は司馬冏を助命しようとしたが、司馬乂が処刑を命じた。

司馬冏の一党は三族ともども処刑され、死者は2千人を超えた。

洛陽を制圧した司馬乂は、専権をふるうことなく、鄴にいる司馬穎に指図を仰いだ。

ところが司馬穎と長安に拠る司馬顒は、協働して司馬乂を倒すことにした。

2人が用いた打倒の口実は、司馬乂が李含を殺したことだった。

李含は、仇敵の皇甫商が司馬乂の下で重用されるのが不満だった。

そこで李含は上司の司馬顒に、秦州刺史をしている皇甫重(皇甫商の兄)の討伐を説いた。

司馬顒は、金城太守の遊楷らに皇用重を攻めさせた。

司馬顒は、「司馬乂暗殺の計画を練るように」と李含に指示したが、これを皇甫商が知って司馬乂に報告したので、司馬乂は李含を処刑した。

司馬顒は李含の処刑を知ると挙兵し、これに司馬穎も加わったのである。

司馬穎は、洛陽にいる司馬乂が下風に立ちつつも言いなりにならないので、除こうとした。

303年8月、挙兵した司馬顒と司馬穎は、共同で次の上奏文を恵帝に送った。

「司馬乂は、尚書右僕射の羊玄之、左将軍の皇甫商と共に朝政を壟断しています。」

司馬顒は張方を司令官に任命して、7万の兵をあずけて洛陽に向かわせた。

司馬穎は陸機を司令官に任命して、20余万の兵を率いさせて洛陽に向かわせた。

(2025年11月20~21日に作成)


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