太平天国の乱

(『世界の歴史20 中国の近代』市古宙三著から抜粋)

アヘン戦争で莫大な軍費を使い、(戦争に負けて)2100万ドルの賠償金も支払うことになった清朝は、国庫がカラになった。

そのため、黄河や揚子江の堤防の改修がおろそかにされた。

たとえ清政府が公共事業費を出しても、役人が懐に入れてしまう。

だからアヘン戦争後は、洪水につぐ洪水となり、多くの流民が発生した。

アヘン戦争では、広東省でたくさんの民兵が募集されたが、(※アヘン戦争は広東省の広州で始まった)、民兵たちは戦争後は解散になり、彼らは広東省や広西省をうろついたので治安が悪化した。

また南シナ海にいる海賊たちも、イギリス海軍の掃討にあって、広東省と広西省の川に逃げ込み治安を悪くした。

アヘン戦争の結果として結ばれた「南京条約」では、上海などを新たに開港することになった。
これにより、(それまで唯一の開港所だった)広東省・広州の繫栄が上海に奪われて、広東省では多くの失業者が出た。

以上の理由から、揚子江の流域や、広東省と広西省で、社会不安が深刻化した。

小さな暴動がしょっちゅう起きるようになったが、それをまとめて大勢力にしたのが洪秀全である。

洪秀全は、1814年に広東省の花県の農村で生まれた。

この村は客家(はっか)の村で、客家とは明の時代に福建から広東や広西に移住した人々である。

客家は、新参者なので痩せた土地に住むことになり、貧農が多かった。

洪秀全は、官吏になるために科挙の試験をがんばったが、落第するばかりだった。

1837年に落第した時は、心痛で40日も寝込んだ。

その病中に幻覚を見たが、それは「金髪の老人に会い、剣を授かって『悪魔を絶滅せよ』と命じられるもの」だった。

洪秀全はこの幻覚を気にすることなく、再び受験勉強に励んだ。

アヘン戦争が終わった1843年に、洪秀全は『観世良言』というキリスト教・プロテスタント派の伝道書を読んだ。

すると、その内容が6年前の幻覚と一致していた。

そこで洪秀全は、「自分に『悪魔を絶滅せよ』と命じたのは、エホバ、つまり天父であり、悪魔とは偶像崇拝なのだ。イエスはエホバの長子で、私は次男なのだ。」と信じた。

そして、自らが教師をしている塾にある孔子の像を、「あれは偶像だ」と言って打ち壊した。

洪秀全は、同じく科挙に落第し続けていた同郷の馮雲山と共に、「拝上帝教(上帝教)」という宗教を始めた。

この宗教は、天父(エホバ)を崇める一神教で、「天父を崇めれば人は誰でも、生前は小さな天国に、死後は大きな天国に行ける」と説いた。

天国がこの世にもあるのは、いかにも現世的な中国人らしい考えだが、この世にある天国(小さな天国)が「太平天国」である。

太平天国では、すべては天父のもので、天父はそれを人々に均等に分け与える。
だから私有財産は禁止であった。

洪秀全と馮雲山は、まず故郷で布教したが、うまく行かなかった。

そこで広西省に行き、山奥に住む客家たちに伝道したところ、信者が増えていった。

1851年1月11日に、洪秀全は1万~1.5万人の信徒を率いて、広西省・桂平県の金田村で挙兵した。

太平天国軍は、51年9月に永安を占領し、ここで陣容を整えた。

しかし清軍(清朝の軍)に包囲され、半年で永安を放棄し、広西省城の桂林を攻めたが落とせず、5万の軍勢をもって湖南省に進んだ。

湖南省・南部の鉱山労働者を仲間に加えて、10万人で長沙を囲んだが、落とせずに北進した。

1852年の末には、武漢を占領した。

太平天国軍は揚子江の流域で急に大きくなり、50万人に増えたが、1853年の初めには武漢を捨てて揚子江を進み、3月には南京を占領した。

そのまま東進して、揚州と鎮江を占領した。

この時点で、男180万人、女30万人になっていた。

太平天国に加入するには、家や土地を売り、家族みんなで入らねばならなかった。

だから女も多くて、時には女も戦闘に加わった。

女が戦う事が出来たのは、多くが客家だったからで、女でも纏足をせずに農業に従事していたからだった。(※纏足するとまともに歩けない)

太平天国軍は、各地で官庁や富商や地主を襲い、財物を掠奪しつつ、道教や儒教の神像を破壊していった。

揚州と鎮江を占領した後は、北伐軍を編成し、首都・北京を目指して進軍した。

北伐軍は、1853年10月には天津の郊外まで来て、北京を目前にした。

一方、残りの太平天国軍は、南京から西進して、かつて占領した南京から武漢までの城市を再占領し、支配体制を築いた。

太平天国軍の主力は、南京を「天京」と改名して、太平天国の建設を始めた。

南京を中心にして太平天国を建国すると、洪秀全は『天朝田畝制度』という小冊子を発行して、政策を明らかにした。

それは次のものであった。


すべては天父のものであり、天王の洪秀全が天父に代わってそれを管理し、人々に均等に分配する


天王の下には、丞相や軍師などの官吏がいて、統治にあたる


両司馬が人民に直接する官吏で、両司馬が統轄する25家の隣組が、社会の単位となる
隣組ごとに国庫と礼拝堂が設けられる


土地は、男女を問わず均等に分け与えられる
面積が均等なのではなく、地味の良し悪しも考えて均等に分ける
15歳以下の子供には、大人の半分が与えられる


人民は両司馬の指導下で土地を耕し、家畜を飼い、大工などの仕事も自分たちでやる


できた作物は全て国庫に収められ、両司馬を介して均等に分配される


7日ごとの礼拝日は、礼拝堂に集まって、両司馬が司祭になって天父に祈りをささげる


礼拝日以外は、礼拝堂は学校になる
教師は両司馬があたる
教科書は、旧約と新約の聖書と、『真命詔旨書』である
(『真命詔旨書』は、太平天国の独自のもので、最も権威ある教えとした)


隣組の中で紛争が起きたら、両司馬が裁判する
判決に不服なときは卒長に上告できる
卒長の判決に不服なら師師に上告と、上役に上がっていき、最後は天王が断を下す


毎年1回、官吏の補欠を行う


3年に1回、官吏の昇進と降格を行う
両司馬の審査を卒長が行い、旅師に上申する
旅師は師師に上申しと、上役に上げていき、最後は天王が決める


人民は農閑期には軍事訓練をし、有事には1家に1人が兵士となって従軍する
両司馬は戦時には、25人を率いる小隊長になる

太平天国には、『天条十款』という10ヵ条の戒律があった。

これはモーゼの十戒に学んだもので、次の内容だった。

① 天父を崇拝せよ

② 邪神を崇拝するな

③ 天父の名をみだりに唱えるな

④ 7日ごとに天父を礼拝せよ

⑤ 父母に孝順なれ

⑥ 人を殺傷するな

⑦ 淫乱をするな

⑧ 盗みをするな

⑨ でたらめな話をするな

⑩ 貪る心を起こすな

太平天国は、従軍中の規律も厳しく、さらに賭博、喧嘩、売春、酒、タバコ、アヘンも禁じた。

妖書(儒教の経典)を読むことも禁じた。

太平天国の最盛期は、1854年~55年と思われるが、人員は300万人を超えた。

大勢力になったのは、土地を均等に分配し、貧者を助けたからだった。

しかし太平天国では、官と民がはっきり区別され、官尊民卑であった。

例えば悪事をすると、民は殺されるが、官は免官されて農民になるだけだった。

また官の上下も厳格で、例を挙げると、天王のカゴのカゴかきは64人で、東王は48人と、徐々に人数が少なくなっていき、両司馬で4人だった。

天王(洪秀全)や諸王の娘は、「金」を付けて呼ばれた。

天王の長女ならば「天長金」、東王の次女ならば「東二金」である。

これは丞相から軍師までの娘には「玉」が付けられ、師師から両司馬までの娘には「雪」が付けられた。

総じて太平天国の刑罰は重くて、火で焼き殺す刑や、五つ裂きにする刑もあった。

太平天国の神(天父)は、新約聖書の神よりも、旧約聖書の神に近い。
もっと言うと、中国古来の神(上帝)に近い。

太平天国の平等思想は、西洋的なものではなく、中国的である。

なぜなら女性も官吏になれて、土地が男と同じに分配され、女の軍隊もあったが、これはキリスト教の男女平等と異なる。

太平天国の男女平等は、(洪秀全の出身である)客家社会から来ているのではないか。
客家の女は、男と同じに働いた。

太平天国の『天朝田畝制度』は、中国古来の書である『礼記』と『周礼』に依ったと言っていい。

しかし太平天国は、『礼記』のような儒教の経典は「妖書」として禁じていた。

思うに天王・洪秀全は、若い頃はずっと儒教の勉強(科挙の受験勉強)だけをしていた。
だから頭の中には、ほとんど儒教の経典しかなかっただろう。

その彼がキリスト教の聖書を読んで、儒家の考えで解釈したのが、太平天国の理想なのではないか。

だから内実は儒教的なのである。

太平天国は、南京を首都と定めてからは(建国してからは)、首脳部に権力闘争が絶えなかった。

首脳部は、天王・洪秀全、東王・楊秀清、西王・蕭朝貴、南王・馮雲山、北王・韋昌輝、翼王・石達開の6人で、いずれも客家だった。

上の6人のうち、洪秀全と馮雲山は、受験生だったことから(学問していたことから)太平天国ではインテリであった。

楊秀清と蕭朝貴は、山岳地帯の炭焼きの親分だったことから、文盲だが腕力があり、軍事を担当した。

韋昌輝と石達開は、金持ちの出身で、文字の読み書きはできたし、財政を担当した。

太平天国は、旗揚げしてから軍事(清軍や義勇兵との戦争)に終始したから、軍事担当の2人が力を持ったが、蕭朝貴は南京に行く途中の長沙の包囲戦で戦死した。

以後は楊秀清が権力を握り、時には洪秀全にまで命令した。

これに不満を高めた韋昌輝は、1856年に計をめぐらして、楊秀清とその配下2万人を南京で虐殺した。

するとこの虐殺を、石達開がたしなめた。

韋昌輝は、石達開も殺そうとしたが、石達開は兵を集めて対峙した。

洪秀全は、南京が戦乱になると考えて、韋昌輝を殺した。

石達開は、自分も殺されると思って、南京を去り、以後は別行動をとった。

太平天国は、清朝を倒して新しい支配者になるには、問題点があった。

まず、儒教の経典を「妖書」として読むのを禁じ、孔子の像を叩き壊したが、これではインテリ層が参加しない。

また、道教の神像も破壊したが、道教は多くの人に信仰されていたから、民衆も参加しづらかった。

そして、広東省と広西省の客家で首脳部を固めて、他の者は功を立てても首脳部に入れなかったことも、太平天国の限界であった。

結局、石達開が去った後は、洪秀全は凡庸な実兄2人に政治を委ねてしまい、太平天国は洪一家の政権に成り下がってしまった。

こうして太平天国は、しだいに人員が減っていった。

清朝は、太平天国に手を焼き、地方の有力者たちに「軍隊を組織して太平天国を倒せ」と命じた。

これに応じて活躍し、威名をとどろかせたのが、湖南省の曽国藩である。

曽国藩の軍隊は、湖南省の異名である「湘」をとって、湘勇とか湘軍と呼ばれた。

曽国藩は、官吏であり、大学者でもあった。

彼は、学者仲間や弟子たちを将校にし、将校たちは信頼できる者を下士官にしたので、湘軍の団結は強かった。

それでも太平天国の全盛期は、湘軍も勝てなかった。

しかし1856年に、太平天国で上記した内紛が起きると、湘軍が優勢になった。

湘軍が太平天国の陣地を落として南京に迫ると、太平天国軍を支えていた忠王・李秀成と英王・陳玉成は、江蘇省と浙江省を攻めて、上海を目指した。

これは湘軍を上海方面におびき寄せるためで、イギリスとフランスの連合軍と清朝の講和が近づいていた1860年6月のことだった。
(当時、イギリスとフランスの連合軍が清軍と戦う、アロー戦争の最中だった)

上海では、アメリカの船員ウォードが200人の外国人部隊をつくって、太平天国軍を退けた。

曽国藩は、部下の李鴻章と左宗棠に、それぞれ「淮軍と「楚軍」を組織させて、江蘇省と浙江省の防衛にあたらせた。

淮軍、楚軍、外国人部隊は、太平天国軍に勝ち、南京へと迫った。

西方からも曽国藩の湘軍が攻め、太平天国軍を挟み撃ちにした。

1864年6月に、洪秀全はたまりかねて南京で毒を飲み自殺した。
7月に南京は陥落した。

太平天国軍が決起してから、ここまでに13年半が経っていた。

太平天国の残党は、揚子江の北に逃げて、捻軍と合流した。

捻軍は、塩の密売をする連中の秘密結社で、天地会などと同じく任侠団体である。

捻軍は、河南省、安徽省、山東省、江蘇省の4省が交わる地方を中心にして、4省を荒らし回っていた。

しかし清軍が攻撃して、捻軍は1868年に滅んだ。

話はかなり戻るが、太平天国の乱が起きると、少数民族がこれに刺激を受けて、各地で反乱を起こした。

1854年に清の圧政に堪えかねて、貴州省南部の苗族は反乱を起こした。
そして勢力を拡大させて湖南省にまで進攻した。

1859年に、太平天国から離脱した石達開が貴州省に入り、苗族と一緒になって清軍と戦い、広西省、湖南省、雲南省にも進出した。

しかし太平天国が1864年に滅びると、苗族らも弱体化し、1872年に苗族軍の首領の張秀眉が死んで、苗族の乱は鎮圧された。

一方、1855年には雲南省の回族も、杜文秀に率いられて反乱した。

これは、清朝の官吏が鉱山をめぐって数千人の回族を殺したことから起こった。

陝西省、寧夏省、青海省の回族も、不満を爆発させて呼応して反乱した。

1866年に捻軍の一部が陝西省に流入した時、回族の乱は絶頂に達した。

しかし徐々に勢力が弱まり、1873年に雲南省の回族は岑毓英(しんいくえい)に、陝西省と甘粛省の回族は左宗棠によって平定された。

なお、陝西省と甘粛省の回族は、ヤクーブ・ベクを頼って行き、新疆の回族と共に反乱を続けた。
しかし1877年にヤクーブ・ベクが死に、左宗棠によって鎮圧された。

(2022年8月15~16日に作成)


『太平天国の乱、アロー戦争、清仏戦争』 目次に戻る

『中国史』 トップページに戻る

『世界史の勉強』 トップページへ行く

『サイトのトップページ』に行く