(『ZONE WEB』から抜粋)
内田篤人は、海外に移籍後からは、帰国時には必ず古巣の鹿島アントラーズのクラブハウスに出向いている。
ブラジルW杯から帰国して4日後の7月1日にも、彼は鹿島に向かった。
鹿島に出向く理由は、3つあると云う。
1つ目は、『かつてのチームメイトとの再会を楽しむこと』。
2つ目は、『関係者たちに元気な顔を見せること』。
3つ目は、『プロ選手として人間として、間違った方向に進んでいないか確認すること』。
今回は、3つ目の意味合いが強かった。
W杯のコロンビア戦の後、内田は自らの進退について言及した。
「(代表引退について)まぁ、考えてます。
日本に帰って、少し休んで考えたい。
引退に関してちょっと前から考えていた。
人には言ってなかっただけで。」
引退の示唆から一夜明け、内田は報道陣にこう打ち明けた。
「代表引退は、人に言われて決める事じゃないし、自分の中で決める事だと思う。
身体的な負担もあるが、以前から『W杯後に考える』と決めていた。
クラブも代表もリスペクトしている分、100%の自分でいられないもどかしさがあった。」
2012年2月に1度、内田は代表引退を決意した瞬間があった。
ザッケローニ監督に、その意思を伝えた。
良い状態が保てなくなり、所属するシャルケでポジションを失った時期だった。
結局、代理人を務める秋山裕輔氏から「W杯と日本代表でしか得られないものがある。代表でしか対戦できない選手もいる。」という言葉を聞いて、思いとどまった。
内田
「アッキー(秋山氏)から言われて、『ブラジルW杯までやろう』と決めたんだ。
俺は南アフリカW杯では試合に出られなかったから、まだW杯を知らない。
知らないまま終わるのはもったいないし、逃げたと思われるのも格好悪いでしょ。
選手の皆がW杯を口にするのだから、自分の知らない世界がW杯にはあるのだろうと思った。」
怪我を乗り越えて立ったブラジルW杯のピッチ。
内田はどう感じたのか。
内田
「どういう大会なのかと思っていたけど、意外と普通のサッカーだった。
海外に行って、色々な経験をドイツリーグで積んだから。
サッカーはチーム・スポーツだし、報われるのは優勝したチームだけだから、努力が報われないのはしょうがない。
ただ、自分として普通にできたと思っている。」
普通にできたため、ドイツで取り組んできたことは間違っていなかったと確認ができた。
内田
「日本代表の地力がまだまだと分かっている中で、この大会に臨んだ。
どうにか勝っていきたかったが、うまく行かなかった。
やっぱり、強い国は引き出しが多い。
このレベルになると、自分たちのサッカーをさせてもらえない。
そこでどうするか。
強いチームは、自分たちの流れでない時や上手くいかない時に、我慢できるんだよね。
日本はまだ、試合の勝ち方を知らない。
自分たちの努力した部分が出せず、報われない結果となって残念だ。
でも、難しいゲームにしてしまったのは自分たち。
日本のサッカーは進歩しているけど、世界は近くなってきたがまだまだ広い。
このまま終われば、何か負け犬のような気がする。」
内田が黒以外の頭髪でピッチに立たないのは、清水東高校時代の恩師である梅田和男氏との約束を守るためだ。
「チャラチャラするなよ。サッカー選手はサッカーで示せ。」と教えを受けた。
鹿島を訪れてから1週間後に、小笠原満男から伝言が届いた。
内田が「サッカーで一番尊敬する選手の1人」とする先輩の言葉は、内田の迷いを断ち切るものだった。
小笠原
「俺は35歳だけど、まだ代表を目指しているんだから、お前はそこで待っていろ。
もう1回、一緒のチームでやりたいからさ。
しっかりやって、待っていろよ。」
○ 村本のコメント
満男ちゃんのセリフが、えらくかっこ良い。
だから最後に置きました。
この記事の主役は、満男ちゃんです。内田ではない。(私にとっては)
満男ちゃんは、代表に入っている頃は消極的な感じがあったのに、今になって代表に情熱を燃やしている。
彼は本当に面白い人だ。
(2015年12月29日に作成)