(以下は『ジーコ自伝』から抜粋)
🔵スポーツ庁長官
1990年3月に私は、ブラジルのコロル政権の要請で、初代のスポーツ庁長官となった。
私は「パス法」の草案作りに力を入れた。
サッカー選手のパス(保有権)を廃止するか、選手自身がパスを保有することを、提案したのである。
サッカー界の奴隷制度とも言えるパス制度は、選手のパスを所属クラブもしくは第三者が持つものだ。
パスを譲渡することで、選手は商品として売買されていた。
パスの譲渡は金額が明らかにされないこともあり、そうなればクラブ移籍のときに選手が保証されている移籍金の15%の取り分がもらえない。
私の兄ゼッカや、伝説的選手のガリンシャは、そうしたトラブルの被害者だった。
パスが廃止されれば、サッカー界の健全化になると私は考えた。
パス法の草案作りに際し、サッカークラブにも意見書を送ったが、返答は1通もなかった。
草案は、「ジーコ法」として正式に制定された。
私はスポーツ庁長官は、1年で辞任した。
🔵来日と住友金属FC
1991年5月21日、私は日本のアマチュアチームである「住友金属FC」と、監督兼選手の契約を交わした。私は38歳だった。
当時、住友金属FCは、日本リーグの2部にいた。
日本では、2年後にプロ・サッカーリーグの「Jリーグ」がスタートすることになっていた。
それで住友金属は、チームのプロ化をし、ホームタウンの鹿島を活性化しようと計画していた。
私はこの計画に協力し、日本のW杯招致にも協力したいと考えたのだ。
住友金属FCの選手たちは、練習で叩き込まれた戦術が試合中に機能しなくなると、対応していくだけの創造力がなかった。
サッカーは、発想や創造性が要求されるが、彼らは指示されたことしか出来なかった。
私は、指示しないことまで勝手にやってしまうブラジル選手との違いに戸惑った。
だが日本人には、新しいものを吸収して自分のものにする才能があり、一度決定したことは計画通りに行う能力がある。
私が住友金属FCに入団した時、ゴールマウスにネットがなく、土のグラウンドだった。
それが屋根付きのサッカー専用スタジアム「カシマ・スタジアム」が造られ、クラブハウスや練習グラウンドも整備されていった。
🔵Jリーグと鹿島アントラーズ
住友金属FCは、プロチームの「鹿島アントラーズ」になった。
Jリーグは1993年5月16日に開幕し、翌17日にアントラーズは名古屋グランパスと開幕戦をした。
私はハットトリックし、アントラーズが5対0で勝った。
ファーストステージでアントラーズは優勝した。
私は日本で3年プレイした。
その途中で、アントラーズの監督に兄のエドゥーが就任した。
1994年6月21日に国立競技場で、私の引退試合が行われた。
試合前から競技場全体がジーコ・コールに包まれ、涙をこらえてプレイするのが精一杯だった。
1996年1月に、私の友人ジョアン・カルロスがアントラーズの監督に就任し、私はテクニカル・ディレクターに就任した。
96年は、シーズン途中にチームの柱のレオナルドがパリサンジェルマンに移籍したが、アントラーズがJリーグのチャンピオンになった。
97年もファーストステージで優勝し、セカンドステージで優勝したドゥンガ率いるジュビロ磐田と決勝戦を戦った。
現在のブラジルは、私の出身地リオの街はいまだにストリートチルドレンで溢れている。
政治家たちは自分の利益ばかり考えている。
子供たちは、サッカーのスパイクどころか、ボールさえ買えない。
私が少年のとき、フラメンゴ・ユースの入団テストを受けられたのは、運が良かった。
残念ながら、実力があっても運がなければチャンスはやって来ないのが現状だ。
(※ジーコ自伝は1998年刊行の本である)
(以上は2025年7月4日に作成)