(以下は『サッカー・マガジンZONE 2016年4月号』からの抜粋
2026年3月7日に作成)
1992年にサッカーの日本代表監督に初めて外国人が起用され、オフトが監督に就任した。
この時、柱谷哲二がキャプテンに指名された。
キャプテンとなった柱谷は、最初からチームをまとめようとはせず、まずは年齢に関係なく言い合える雰囲気をつくった。
日本サッカー協会に対して、宿泊先にリラックス・ルームを作ってほしいと要望した。
リラックス・ルームには、フルーツや飲み物を置き、サッカーのビデオを見られるようにして、マッサージするスタッフも置いた。
ここでコミュニケーションをとり、3つのグループに分かれていた日本代表は1つのチームになっていった。
だがオフト監督の指導について、チーム最年長のラモスだけが不満を高めて、雑誌インタビューでオフト采配を批判した。
柱谷が語る。
「オフト監督は結果を出したから、彼の勝ちでした。
だからラモスさんに言いましたよ。
『皆がオフトに付いていくと決めているのに、あなたに色々言われると僕はチームをまとめられない。嫌なら代表を辞退すればいいじゃないですか』と。
怖くて心臓はバクバクでしたけどね。」
後にオフトとラモスは和解し、日本代表はアジアカップで初優勝した。
柱谷は、オフトの後任のファルカン監督と、加茂監督の下でもキャプテンを任された。
柱合は言う。
「自分の経験から、キャプテンは慎重に選ぶ必要があると感じてます。苦労がすごいからです。
その一方で、周りの選手がキャプテンを支えることも大切です。
キャプテンだけに責任を負わせない方が、他人との関わりが希薄がちな現在の選手たちには合うと思います。
チームには結局、いくつかのグループができます。
キャプテンが自分のグループに甘く、他のグループに厳しいと、何だよと思われてしまう。
誰とでも同じに接する人で、なおかつ試合に出ている選手に、キャプテンは任せたいですね。」