(『サッカー・マガジン2017年11月号』から抜粋)
1998年W杯(フランス大会)は、日本代表・男子が初めてアジア予選を勝ち抜き、本大会に出場した大会である。
だが、アジア最終予選では苦戦して、ホームでの韓国戦で逆転負けし、続くアウェーのカザフスタン戦でも終了間際に追いつかれてドローとなった。
このままではアジア最終予選を突破できないと見た日本サッカー協会の首脳は、加茂周・監督を解任した。
そして新監督は、コーチから昇格した、監督は未経験の岡田武史であった。
当時のアジア最終予選は、3ヵ月間で集中的に行われていたが、この短期間にFWのメンバーは大きく変わった。
呂比須ワーグナーが加わり、高木と西澤は出番を減らした。
さらにケガした三浦カズに代わって、久々に代表に復帰した中山が活躍し、先発入りした。
また、若手MFの中田英寿は1次予選の途中から出場したが、最終予選のすべてに出場して、攻撃の核となった。
最終予選で唯一、全試合に先発フル出場したのは、GKの川口でまだ22歳だった。
岡田ジャパンは、アジア最終予選を突破すると、W杯本大会が近づく中で、5月11日に合宿入りする25人のメンバーを発表した。
岡田監督は選考について、「実績や将来性は関係なく、フランスで勝つためのメンバーにした」と言い切った。
当落線上にいると言われていながら選ばれたのは、服部、斎藤俊秀、18歳の市川だった。
MFでは、本田泰人よりも攻撃面で優れるとの理由で、伊東が加えられた。(伊東は最終予選に未出場だった)
さらにJリーグにデビューしてまだ3ヵ月の、小野伸二(18歳)をサプライズ選出した。
合宿ではメンバーが登録可能な22人にまで絞り込まれたが、最終的に三浦カズ、北澤、市川がメンバーから外された。
そして始まったW杯本大会では、日本は全敗に終わり、W杯の厳しさを知ることになった。
〇村本尚立のコメント
当時を思い出すと、アジア最終予選で劇的な勝ち抜けを決めて、日本中が大騒ぎになりましたね。
当時の予選は今と違い、アジア枠が少なくて、W杯本大会の出場権を得るのが、はるかに大変でした。
今のユルユルの状態と全く違いました。
で、皆が大喜びしたのですが、少しして冷静なると不安が増してきました。
W杯本大会に初めて出場するので、ファンもメディアも、選手と監督も、皆が喜ぶと同時に不安を抱いて、浮足立ってましたね。
その中で岡田監督が大胆な行動を見せて、三浦カズなどを外すメンバー選考をしたので、「変人だ」と皆に言われました。
私も、彼のことを変人だと言動から思いましたが、カズや北澤を外したことには賛成でした。
この2人はしばらく代表戦で活躍していなかったし、周りの選手とかみ合ってない感じも強かったからです。
あとは活躍してないのに、自分たちが代表の中心という、過去の栄光にすがった驕りも感じられました。
だから外すのは賛成でしたが、それをした勇気というか決断力に驚きました。
三浦カズは、それまで得点を重ねて長く日本代表を牽引していたから、不調が続いていても監督は外さないと見てました。
だから外した時は、拍手を送りましたよ。
一方で、カズと北澤はいじけてましたが、その気持ちもよく分かりました。
W杯に初めて出るという、前代未聞の事態にサッカー協会は直面して、パニックに陥り、岡田監督という変人にすべてを丸投げした感じでした。
私にはそう見えました。
事なかれ主義で、前例を踏襲するのが大好きな日本人ですが、あの頃のサッカー協会はプロ化して間もなかったのもあり、まだエリート臭や権威臭が薄くて、組織もいまだ小規模だったし、変人を受け入れる度量や柔軟性がありました。
当時の中田英寿なんかも、愛想がなく若いのに本音でズバズバ言うので、マスメディアから猛烈な批判を浴びてましたが、今だったら徹底的に叩かれて、その圧力で代表にも呼ばれなくなると思います。
体育会のノリで先輩に絶対服従するとか、非効率の練習を強いられるとか、当時のサッカー界には深刻な問題があったのですが、今より自由な部分もありました。
サッカーがビッグ・ビジネスになるにつれて、全てがカネの話に終着するという、つまらない世界になりましたね、サッカー界は。
(2023年4月12日に作成)