(『サッカー・マガジン2017年11月号』から抜粋)
2002年のサッカーW杯(日韓大会)は、日本は自国開催のためにアジア予選がなかった。
この大会に向けて日本代表監督を任されたのは、フィリップ・トルシエだった。
トルシエ監督は、「フラット3」という戦術を推し進めた。
これは、CB3人をフラットに(真横に1列に)並べて、高い位置取りをさせ、チーム全体をコンパクトに保つものである。
そうしておいて、ハイ・プレスをかけて、ショート・カウンターを狙う。
トルシエは、このスタイルに適した選手を発掘していった。
選手を型にはめるトルシエの指導法は、時に批判されたが、時間が限られる代表チームでは効率的なやり方だった。
さらにトルシエは、アンダー世代の監督も兼任したので、若い世代にも戦術が浸透した。
トルシエは、自らが「実験」と語る作業で、戦術に適う選手を増やしていき、1999年のワールドユースで準優勝、2000年のシドニー五輪でベスト8、A代表も2000年のアジア・カップで優勝した。
ところが2001年3月のA代表のヨーロッパ遠征で、壁にぶつかった。
フランスに完敗(0-5)し、進めてきたスタイルの限界が見えた。
以降のトルシエ監督は、別の戦術を模索し、続く4月のスペイン戦では5バックを試して、戸田和幸や服部年宏といった守備に長けた選手を招集した。
するとコンフェデ杯で準優勝し、11月のイタリア戦も1ー1で引き分けた。
イタリア戦の後、トルシエは「チョイスは終わった」と言い、基盤の完成を示唆した。
2002年に入ると、エコノミー症候群で高原直泰が離脱したり、森岡隆三の負傷はあったものの、メンバーに大きな変動はなく進んだ。
最終的に、故障明けの名波浩は外され、アジア・カップで活躍した中村俊輔も外された。
トルシエはかねてから、「試合を始める選手と、締めくくる選手がいる」「サブの選手は、強いメンタリティの持ち主でなくてはならない」と説いていた。
その実践として、サブ・メンバーに中山雅史と秋田豊がギリギリになってから選ばれた。
W杯本大会では、トルシエ・ジャパンはホスト国の面子を保つ、16強入りを成し遂げた。
だが決勝トーナメント1回戦の対トルコでは、先発メンバーを大幅に入れ替えた挙句にあっけなく敗れ、批判を浴びた。
(※この大会では、同じく開催国の韓国はベスト4まで行っており、それと比べてもの足りない、ベスト16は良い成績ではなかったという意見もある。)
(2023年4月13日に作成)