2006年W杯(ドイツ大会)の日本代表

(『サッカー・マガジン2017年11月号』から抜粋)

2006年のサッカーW杯(ドイツ大会)は、日本は史上初めて、主力の多くが海外クラブに所属する状態でアジア予選を戦った。

(※2002年の日韓W杯で日本代表が注目された結果、その後に海外クラブに移籍する選手が増えた)

ドイツ大会に向けて日本代表・男子の監督を任されたのは、サッカー界のレジェンドでJリーグでも活躍した、ブラジル人のジーコだった。

ジーコ監督は、戦術について細かい約束事を決めず、選手の相互理解を深めることを重視した。

その一方で、Jリーグでプレイする国内組は軽視して、良いプレイを見せても先発に使わず、「海外組の穴埋め」という印象を与えた。

W杯の1次予選は2004年2月に開幕したが、海外組が先発に名を連ねたものの、苦戦を強いられた。

そして4月以降の2度のヨーロッパ遠征で、海外組の中田英寿と稲本潤一が負傷し離脱した。

代わりに国内組の福西崇史や遠藤保仁が出場したが、前線でも国内組の久保竜彦や玉田圭司が台頭した。

それまでの4-4-2から、当時のJリーグで主流だった3-5-2に布陣を変更したのも奏功して、7月開幕のアジア・カップでは連覇した。

2005年2月にW杯のアジア最終予選が始まったが、初戦の北朝鮮戦では海外組の高原直泰が控えに回り、サプライズ招集された国内組の大黒将志が決勝点をとり名を上げた。
(大黒は最終予選で4試合3ゴールと活躍した)

続くイラン戦では、中田英と稲本が復帰したが、稲本は控えで福西がフル出場した。

稲本がサブ・メンバーなのは、その後も変わらなかった。

2006年に入ると、負傷離脱をくり返していた海外組の小野伸二が、国内組の小笠原満男にスタメンを完全に奪われた。

小笠原は、最終予選の初戦と、大一番のバーレーン戦で先制点を決め、予選突破に大きく貢献していた。

W杯の本大会に呼ぶメンバーの発表では、巻誠一郎が選ばれたことに多くの人が驚いた。

ジーコ・ジャパンでは、FWでは久保が活躍していたが、ケガを抱えているので外されてしまい、直前の親善試合で結果を出した巻(アジア予選は未出場)が呼ばれたのだ。

その後、W杯に向けた国内合宿で、田中誠が負傷してしまい、急きょ茂庭照幸が呼ばれた。

さらに中村俊輔は体調不良で、加地亮も親善試合で負傷してしまった。

W杯の初戦であるオーストラリア戦では、加地に代わってアジア予選に未出場の駒野友一が出場したが、日本は逆転負けした。

そのままグループリーグで1分2敗と低迷し、グループリーグで敗退した。

中田英寿は、この大会を最後に引退した。

〇2006年W杯でキャプテンを務めた宮本恒靖の話

(2002年W杯の)フィリップ・トルシエ監督は、戦術ありきで、W杯で結果を出す(グループリーグを突破する)ためのサッカーでした。

それがフラット3であり、リアクション・サッカーでした。

2002年W杯は、グループリーグは突破できたが、決勝トーナメントの1回戦(対トルコ)では先制点を取られて、そこからは相手を崩せず、負けました。

W杯でさらに上に進むには、自分たちがアクションに出るサッカーじゃないと難しい。

それを踏まえて、次のジーコ監督はアクションを取ろうとし、テクニックを重視しました。

ジーコ・ジャパンにもっと戦術があれば、勝ち上がれた気がします。

(※代表選手たちの回想を多く読むと、日本は守備的に行くならそれに専念、攻撃的にいくならそれに専念と、本来やるべき攻守のバランスを取る事を、軽視してきたと分かる。

常に思考や戦術に柔軟性がないのだが、その根本原因は、選手たち(日本の若者たち)に自分で判断するように教育しない、日本のダメな教育システムだと思う。)

あとは、W杯の本大会では、ピッチ外のマネジメントが重要になります。

どこで事前キャンプをするか、どういう宿舎を選ぶかなどです。

2010年W杯は、開催国の南アフリカに入る前に、スイスで合宿して上手く行きました。

逆に2014年W杯は、キャンプ地にイトゥを選んで、移動距離が長くなってしまいました。

2002年W杯(日韓大会)は、葛城北の丸(静岡県)で過ごしましたが、喧噪から離れて集中できる環境でした。

逆に2006年W杯は、ボンを拠点にしましたが、サポーターがホテルの中まで入ってくるなど、ストレスがありました。

2006年W杯の反省は、合宿所(ボン)に入るタイミングですね。

5月26日に入り、親善試合(ドイツ戦とマルタ戦)が終わった頃には、マンネリ感が出ました。

ドイツ戦の後に違う場所に行って、またボンに戻るのだったら違ったかもしれません。

(※ずいぶんと贅沢な要求をするな、お前、とも思える。どこか殿様気分がうかがえなくもない。)

2006年W杯は、サブ選手の不満も聞こえてきて、良くない流れだと感じましたが、案の定、初戦で負けるとチームはバラバラになってしまいました。

(※宮本恒靖は他人事で語っているが、この責任のかなりの部分は、キャプテンを務めていた彼にある)

リフレッシュするタイミングも大事で、トルシエ監督は大会前に家族を呼んでバーベキューをするなど上手でした。

(2023年4月13~14日に作成)


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