(以下は『サッカー・マガジン2017年11月号』からの抜粋
2023年4月14日に作成)
2010年のサッカーW杯(南アフリカ大会)に向けて、日本代表・男子の監督は、イビチャ・オシムが就任した。
(※オシムはJリーグでも監督として好成績を上げ、日本で名将と言われていた)
しかしオシムは、W杯のアジア2次予選までは率いたが、病いで倒れてしまった。
そこで、過去に1度代表監督をしていた岡田武史が、緊急の登板となった。
岡田監督は、2008年2月からのアジア3次予選を指揮したが、2戦目のバーレーン戦で0-1のまさかの敗戦をした。
これを岡田は「最大の屈辱」と語り、これを機に「自分のやり方でチーム作りを進める」と決断した。
そしてオシム色は徐々に消え、岡田色が濃くなっていった。
岡田は、前任のオシムが抜擢した今野泰幸や阿部勇樹はチームに残したが、「水を運ぶ人」とオシムが絶賛していた鈴木啓太を外し、山岸智や羽生直剛も外した。
(※山岸と羽生は、オシムが監督をしていたジェフ市原の選手だった。教え子を代表選手に起用した形だった。)
代わって出場機会を得たのは、長谷部誠や長友佑都だった。
さらにアジア最終予選に入ると、それまで未招集だった本田圭佑や岡崎慎司を起用した。
岡田は、「接近、展開、連続」というコンセプトを掲げて、最終予選を勝ち抜けた。
ところがW杯イヤーの2010年に入ると、テスト・マッチの内容が振るわず、4月のセルビア戦、5月の韓国戦に敗れて、批判が高まった。
一時は、ファンが退任を求める運動まで起きた。
岡田監督は2010年のW杯本大会に臨むにあたり、メンバー選考で「自発的な一体感を生むかどうか」を求めた。
そして長くリハビリ中だった34歳の川口能活を、サプライズ招集した。
川口は第3GKになったが、チームを支えて、指揮官の求める自発的な一体感を生み出した。
(※キャプテン・マークをつけていた長谷部の回想によると、このW杯での実質的なキャプテンは川口だった)
岡田はさらに、アジア予選で未招集だった岩政大樹も、空中戦の強さを買って選んだ。
相手がパワー・プレイを仕掛けてきた時の対策だった。
FWで長身の矢野貴章をサプライズ招集したのも、同じ理由だった。
岡田ジャパンは守備重視の戦い方をして、ベスト16の成績となった。
(以下は『サッカー・マガジンZONE 2016年4月号』からの抜粋
2026年3月7日に作成)
2010年5月25日のW杯・本大会を前にした壮行試合で、岡田監督が率いる日本代表男子は韓国に0-2で敗れた。
この時に岡田は辞意すら漏らして、長谷部誠を呼ぶと「キャプテンをやってくれ」と告げた。
それまではキャプテンは中澤佑二(32歳)がしており、中澤はバリバリのスタメンだった。
一方、長谷部は26歳で、それまでプロ入りから一度もキャプテンをした事がなかった。
岡田監督は、長谷部の持つ組織の潤滑油のようなキャラクターを高評価し、サプライズ的にキャプテンに指名した。
当時の日本代表は、闘莉王や中澤ら30歳くらいの選手と、本田圭佑ら20代前半の選手がいて、長谷部はちょうど中堅の位置にいた。
だからバランサーになると判断されたのだろう。
長谷部は明るい仕切り屋のタイプだ。
岡田監督は、キャプテンを長谷部にするのと同時に、チームの戦術や選手配置を変更した。
結果的にはW杯でベスト16まで行った。
岡田の次に日本代表監督となったザッケローニも、長谷部をキャプテンにした。
長谷部はこう話す。
「岡田監督の時は、僕はゲームキャプテンにすぎず、チームキャプテンは川口能活さんでした。
ザック監督になってから、僕は初めてチームキャプテンになりました。」
ザック・ジャパンでチームが崩壊しそうになった時、長谷部が音頭をとって選手のミーティングを行い、チームを立て直した。
その後のアギーレ監督も、ハリルホジッチ監督も、長谷部をキャプテンに指名した。