サッカーの雑学

(以下は『週刊サッカーマガジン2007年9月25日号』から抜粋)

○マルコ・マテラッツィ(イタリアの選手)とジダン

2006年ドイツW杯の決勝では、フランスのジダンが、イタリアのマテラッツィに頭突きをかまして、退場となった。

イタリアが勝って優勝したことで、マテラッツィはイタリアで英雄になっている。

イタリア代表の試合では、マテラッツィのユニフォームを着るファンが多くなる現象が見られ、彼らは「マテラッツィがイタリアにワールドカップを与えた」と言う。

マテラッツィは、W杯の直後にナイキのCMキャラクターに起用され、頭突きをモチーフにスーパーマンを演じた。

さらに告白本を出版してカネを稼いだ。

この本は、ジダンがシャツを引っ張るマテラッツィに「そんなにシャツが欲しいなら試合後にやるよ」と言ったこと、マテラッツィが 「お前の売春婦の姉のほうがいい」と返事したことが書いてある。

この発言に怒ったジダンが頭突きしたわけだ。

マテラッツィは、「ジダンは頭突きの件を皆に詫びたが、なぜ僕には謝らないのか」と発言して、「仕掛けたお前が先に謝れ」と猛反発を食らった。

ジダンは、マテラッツィの呼びかけをことごとく無視している。

○シュート技術

インステップ・シュートと、インサイド・シュートは、全く逆の蹴り方をする。

インステップ・シュートは、ランニング・スピードを必要とし、助走とスペースを必要とする。
軸足は、足先で体重を支える。

インサイド・シュートは、制限されたスピードで行われ、ランニングは停止することもある。
軸足は、足の裏が地面に完全に密着する。
このシュートは、時には蹴るというよりも押し出す感じとなる。

すべてのシュートのうち、最も難しいものは、地面を速く転がるボールだ。

この場合、軸足は地面から離れる時点でしっかりと足先で支えられる。 (つまりインステップ・シュートである。)

濡れた芝生の上を速く走る水平シュートは、わずかな地面との接触、わずかな滑りが、ボールのスピードを上げて、キーパーが取りづらい。

(以下は『週刊サッカーマガジン2007年11月20日号』から抜粋)

○マルコ・ファンバステンと1988年のヨーロッパ選手権

1988年のヨーロッパ選手権では、準決勝でオランダと西ドイツが当たった。

この時までオランダは、W杯やヨーロッパ選手権で西ドイツに敗れることが続いていた。

この試合では、西ドイツの選手、リトバルスキーが胃痛で調子を崩していた。

試合が始まると西ドイツは、オランダのパスの起点であるルート・フリットを抑えようとし、ある程度は成功したが、点取り屋のファンバステンにスペースを与えてしまった。

そしてファンバステンのゴールでオランダが勝った。

ファンバステンの特徴は、長身で足が長いことがある。

足が長いので、DFは体を寄せてもシュートを止めにくい。

さらに彼は両足でシュートを打てる。

この時のオランダ代表には、ライカールトという攻守の軸がいて、 ロナルド・クーマンというシュートとパスの上手いDFもいた。

西ドイツを破ったオランダは、決勝ではソ連と対戦した。
53分にファンバステンが見事なボレーシュートを決め、オランダが優勝した。

(以下は『しんぶん赤旗日曜版2024年3月3日号』から抜粋)

○都並敏史の回想、北朝鮮について

私は日本代表歴は15年でしたが、北朝鮮とは2回対戦しました。

1985年にW杯メキシコ大会の出場権をかけて、国立競技場と平壌で対戦しました。

北朝鮮は、1966年W杯イングランド大会でベスト8になっており、W杯に出たことのない日本よりも格上でした。

日本国内でも、在日朝鮮人のチームである「在日朝鮮蹴球団」が、日本のトップ・クラブを練習試合で圧倒する強さでした。

「在日朝鮮蹴球団」は、日本で公式戦には出られず、「影の日本一のチーム」と呼ばれてました。

話をW杯メキシコ大会の予選に戻しますが、日本は国立競技場での第1戦は、1-0で北朝鮮に勝ちました。

日本がホームなのに、北朝鮮の応援団が観客の多くを占めました。

(※当時は日本でサッカー人気はまだ無い)

平壌での第2戦は0-0でした。

第2戦は、北朝鮮はシュートが23本だったのに対し、 日本はわずか2本でした。

左サイドバックで出場した私は、攻撃参加が全くできませんでした。

この試合は平壌で行われましたが、8万人の観客が北朝鮮を応援しました。

北朝鮮の選手は、競り合いに強く、ぶつかると骨がきしむ位に当たりが強烈でした。
ドリブルとパスも上手かったです。

ただし当たりは激しくても、プレーは汚くないのは、当時から現在まで変わっていません。

(以下は『フットボリスタ 2010年2月10日号』から抜粋)

イングランド代表のCBだったソル・キャンベルは、1998年のW杯に出場した時、オフの日は街の散歩に出た。

2002年の日韓W杯でも同じで、エリクソン監督や選手たちが至れり尽くせりのホテル生活を満喫する中、キャンベルは日本の田園風景を堪能していた。

イングランドのサッカー選手は、昔から好奇心に乏しい。
外には出ず、ホテルでポーカーなどの金をかけたゲームに熱中する。

だからキャンベルは異質な存在だっだ。

キャンベルは型にはまらない男で、トッテナムに居た時は契約延長を拒んで契約満了に持ち込み、ライバル・チームのアーセナルに移籍するという、掟破りをしたことがある。

それ以来、トッテナムのファンの度を越した罵声が続いてきた。

キャンベルがアーセナルに在籍した5年間で、2度のリーグ優勝をしている。

だが2006年2月のウェストハム戦で失点にからみ、交代を命じられると、そのままスタジアムを去り旅に出てしまった。

旅から戻ると、ベンゲル監督に移籍希望を伝えた。
半年後にポーツマスに移籍した。

2009年夏にポーツマスを去ったキャンベルは、エリクソンが役員をする4部のチーム(ノッツ・カウンティ)に入団した。

しかしすぐに退団し、アーセナルの練習場に現われてアピールして、アーセナルと再契約した。

(以下は『フットボリスタ 2007年12月19日号』から抜粋)

ジーコ監督が率いるトルコのフェネルバフチェが好調だ。
昨季は国内リーグで優勝し、今季はCLでグループリーグ突破を狙える位置にいる。

フェネルバフチェは、先発メンバーに6人のブラジル人がいる。
エドゥ、ロベルト・カルロス、アレックス、メフメト・アウレリオ、デイビッド、ベデルソンの6人だ。

CBのルガーノはウルグアイ人なので、7人の南米人が先発メンバーにいる。

そのサッカーは攻撃的で、トライアングルを作ってショートパスで刻んでいく。

スピードよりも丁寧さを優先したビルドアップに、ジーコらしさが表われている。
抑制の効いたリズムで、じっくり回して攻めるスタイルだ。

1トップの下にいるアレックスが、チームの頭脳だ。
現役時代のジーコと同じで、彼には全面的な自由が与えられている。

攻撃の最後の仕上げはアレックス頼みで、ジーコが日本代表監督だった時は中村俊輔がその役だった。
10番に依存するやり方である。

2006年W杯の後、日本代表を率いたジーコはこれからの課題について、「ボールを回して相手を焦らすこと」を挙げていた。

ブラジル人には当たり前にできるプレーだが、日本人はそうではなかった。
そのギャップは最後まで埋まらなかった。

今のフェネルバフチェは、6人のブラジル選手がいるから、ジーコのやりたいサッカーができている。

(以下は『フットボリスタ 2008年4月2日号』から抜粋)

トルコのクラブチームであるフェネルバフチェが、CLで準々決勝に進出した。
クラブ史上初である。

この躍進に貢献したのが、FWのマテヤ・ケジュマンである。

ケジュマンはセルビア人で、2000年にオランダのPSVに移籍すると、在籍4年で126得点し、3度の得点王に輝いた。

その後は、チェルシーやAマドリードでプレイしたが活躍できなかった。

彼は、ジーコ監督のフェネルバフチェで復活した。

(以下は『フットボリスタ 2011年7月13、20日号』から抜粋)

ペルー代表は、4-3-3のフォーメーションで、ピサーロ、ファルファン、バルガスの3トップだった。

しかし3トップ全員が負傷してしまい、もうすぐ開幕するコパ・アメリカ2011年大会では3-5-2あるいは3-4-3に変えると見られている。

マルカリアン監督は、「3バックになっても驚かないでくれ」と語っている。

コスタリカは、正GKのアルバラード(AZに所属)がコパ・アメリカ2011の出場を辞退した。

元恋人が「暴力をふるわれ続けた」と訴えたのが理由だ。

(以下は『フットボリスタ 2007年2月21日号』から抜粋)

○アドリアン・ムトゥ

アドリアン・ムトゥは、ルーマニア人のFWで、2002-03シーズンはパルマでプレーし、アドリアーノや中田英寿と攻撃をけん引して、リーグ2位の18得点した。

2003年8月に30億円でチェルシーへ移籍。しかし活躍できなかった。

04年10月にドーピング検査に引っかかり、コカインの常用を告白した。

薬物使用でチェルシーを解雇され、出場停止の処分に。

2005年5月にユベントスで復帰し、2006-07シーズンは恩師のプランデッリ監督が率いるフィオレンティーナに移籍した。

フィオレンティーナは、発覚したセリエAの八百長事件に加わっていたため、セリエA(1部リーグ)には留まったが、2006-07シーズンは勝ち点がマイナス19でスタートした。

ムトゥは中田英寿や中村俊輔と友達だが、こう明かした。

「ヒデは髪を切るのに、5千ドルを使っていたよ。
ナカムラは、グラスゴーで有名人になっちゃって、それがすごく辛いと言っていた。」

○ヒディング監督の脱税容疑

オランダの検察は、ロシア代表監督をしているフース・ヒディングに対し、脱税容疑で禁固10ヵ月の求刑をした。

ヒディングは韓国代表監督の時に、収入をオランダに比べて税金の安いベルギーで申告し、140万ユーロの脱税したと判断された。

○スコットランド・サッカー協会の騒動

スコットランド・サッカー協会(SFA)の騒動は、発端はレンジャーズがル・グエン監督をクビにしたことだった。

レンジャースは、サポーターの解任要求に屈して、ル・グエンをクビにした。

そして新監督として、スコットランド代表監督のウォルター・スミスを引き抜いた。

SFAはこの引き抜きに激怒したが、結局レンジャースがSFAに数千万円の違約金を支払うことで決着した。

SFAは、大きなスポンサーもなく財政が厳しいため、弱い立場にある。

(以下は『フットボリスタ 2007年3月7日号』から抜粋)

○スコットランド・サッカー協会の騒動

スコットランド・サッカー協会(SFA)が注目を集めている。

まず、スコットランド代表のウォルター・スミス監督が、レンジャースの監督として引き抜かれて、代表監督を辞めてしまった。(※この件は上記した)

これに怒ったのがSFAのデイビッド・テイラーCEOで、「途中で職を投げ出すなんて、スミスは人として問題がある」と強く非難した。

ところが今度はデイビッド・ティラーが、UEFA(ヨーロッパサッカー連盟)のCEOとして引き抜かれそうなのだ。

UEFAの会長になったプラティニは、親交の深いテイラーにCEOにならないかと誘っている。

UEFAがテイラーに示した年棒は、80万ポンド(約2億円)という。
「この高額なら断わることはない」と見られている。

ジム・マクリーン記者は、テイラーを厳しく批判する。

「テイラーは、スコットランド代表監督にドイツ人のフォクツを連れてきて失敗した。

後任のスミス代表監督も、EURO2008の予選の途中でレンジャースに行き、代表コーチのバーンズもセルティックへ行ってしまった。

この責任はテイラーにあるが、彼まで逃げようとしている。」

だが見方を変えると、SFA会長のジョン・マクベスが2007年5月からFIFAの理事になるし、テイラーがUEFAのCEOになれば一気にスコットランドの政治パイプは太くなりそうだ。

(以下は『フットボリスタ 2007年11月14日号』から抜粋)

オーストリア・リーグのザルツブルクは、トラパットーニ監督がイタリア式のカテナチオのサッカーをしている。

トラパットーニは「私は何よりも結果を重視する」と言い、守備重視のつまらないサッカーをしているため、攻撃的サッカーを求めるファンたちと対立している。

サッカーの内容は良くないが、予算(カネの力)がリーグで突出しているので、昨シーズンは優勝した。

ザルツブルクには、日本人の三都主と宮本恒靖が在籍しているが、出場機会は少なくなっている。

監督が代わらないとスタメン奪取は難しそうだ。

トラパットーニは、同チームのオーナーであるレッドブル社・会長のマテシッツのお気に入りで、解任されそうにない。

(以下は『フットボリスタ 2007年12月19日号』から抜粋)

○ルーマニア代表

ルーマニア代表は、EURO2008の出場権を獲得した。
監督はビクトル・ピトゥルカである。

前任のヨルダネスク監督は、選手に厳しい態度を取らなかった。
それでムトゥらの選手たちは、合宿を抜け出して夜遊びするのが恒例になっていた。

ピトゥルカは選手たちの放縦を許さなかった。

ピトゥルカは、現役時代はならず者だった。
賭博で刑務所に入ったほどだか、その時に独裁者チャウシェスクが刑務所から出した。

チャウシェスクは、自分の故郷のチーム「FCオルト」でプレーさせるため、ピトゥルカを特赦したのだ。
過去の犯罪歴を帳消しにする特典つきだった。ピトゥルカはオルトでプレーした。

その後にピトゥルカは、ステアウアに移籍し、ラカトシュらと共にチャンピオンズ・カップで優勝した。

ステアウアは1989年にもチャンピオンズ・カップの決勝まで進んだが、サッキ監督のACミランに敗れた。

1998年W杯でルーマニアはベスト16まで行ったが、ヨルダネスク監督は退任した。
そしてピトゥルカが代表監督となった。

若手のムトゥやキブが台頭したおかげで、ルーマニアはEURO2000の予選を突破した。
ところがルーマニア・サッカー界の実力者であるベカリ兄弟との確執から、ピトゥルカは辞任となった。

ベカリ兄弟は、兄はステアウアのオーナーで、弟は多くの代表選手の代理人をしている。
この兄弟は、彼らの傘下にいる選手でルーマニア代表を固めるよう要求し、ピトゥルカが拒否したので辞めさせたのだ。

ピトゥルカはその後、ステアウアを率いて2度のリーグ優勝をし、2005年に再び代表監督となった。

ビトゥルカはマスコミ嫌いだ。

ルーマニアのマスコミは、露骨にワイロを要求する。
大手スポーツ紙『ファナティク』の編集長ホリア・イバノビッチも、ピトゥルカに「悪いことを書かないからカネをよこせ」と要求した。

ピトゥルカは断り、イバノビッチを告発した。
この裁判では、代表キャプテンのキブも法廷で証言した。

(以下は『フットボリスタ 2008年3月26日号』から抜粋)

○欧州の得点王(ゴールデン・シューズ賞)

欧州の得点王(ゴールデン・シューズ賞)を獲るには、有利不利がある。

まずリーグのレベルに応じて、ポイントが変わる。
上位5リーグは得点数が2倍に、それに続く中位リーグは得点数が1.5倍に、弱小リーグ1倍で計算される。

だから昨シーズンは、イタリアリーグのトッティは26ゴールで、オランダリーグのアフォンソ・アウベスは34ゴールだったが、トッティは2倍の52ポイント、アウベスは1.5倍の51ポイントで、トッティが受賞した。

要するに、ゴールデン・シューズ賞をとるには、5大リーグにいるのが有利だ。

また、ドイツリーグとオランダリーグは18チームで、スペインリーグなどの20チームよりも少ない。

このため4試合少なくなり、シューズ賞をとるには不利だ。

○クロアチア代表

クロアチア代表は、2006年ドイツW杯でグループリーグ敗退となった後、若手のビリッチを監督にした。

ビリッチはいま39歳で、EURO2008に出場するチームの中で最年少の監督だ。

ビリッチは、1998年W杯でユーゴスラビアが3位になった時のメンバーだ。

(※その後にユーゴスラビアは、クロアチアなどに分裂した)

ビリッチ監督の脇を固めるのは、1998年W杯で共に戦ったアサノビッチやプロシネツキだ。

彼らはクロアチア定番の3バックから、コンパクトな4-4-2に変更した。

クロアチア代表は2006年W杯の時は、監督はズラトコ・クラニチャールで、中心選手は息子のニコ・クラニチャールだった。
だがグループリーグで敗退し、父子は非難の集中砲火を浴びた。

ビリッチは、トップ下だったニコを、左サイドMFにコンバートした。

同じくトップ下のルカ・モドリッチも、ボランチにコンバートした。

モドリッチは、ディナモ・ザグレブに所属するが、すでにチェルシーやアーセナルなどが目を付けている選手だ。
攻撃的な選手だが、守備もこなせる。

右サイドMFのスルナは、合宿中の夜遊びで一度は追放処分となったが、戻ってきている。

エースのエドゥアルドは、アーセナルの選手だが、左足首の骨折という大ケガで出場は絶望的だ。

(2024年5月~7月に作成)


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