MFの話

(以下は『サッカーマガジンZONE 2014年2月号』から抜粋)

○ピルロ(イタリア代表やACミランで活躍した選手)の話

イタリアが誇る司令塔である、アンドレア・ピルロ。
34歳になった彼は、こう話す。

「僕のプレーの効率の良さは、幼いころに培われたものだ。

年齢を重ねたことでプレーが賢くなった実感はない。

トッティは若い頃からすごかったし、今の若手でいえばユベントスでチームメイトのポグバは本物だよ。」

筆者(クリスティアーノ・ルイウ)はかつて、ロベルト・バッジョを追いかけて取材していた。

2001年にバッジョは、ブレシアに所属していたが、練習場で居残りのフリーキック練習をする際、となりに若き日のピルロがいた。

バッジョが蹴り、次はピルロが蹴る。
ピルロのキックを見て、才能が尋常でないと分かった。

ピルロも、若い頃から凄かった。

ピルロはこう話す。

「僕は生まれつき身体が軟弱なチビだった。

だから必然的に考えてプレーするようになった。

でかくて強い連中に負けないために、当たりに強くなろうなんて思わなかった。

むしろ、どうすれば当たらずに済むか、ばかりを考えていた。」

ピルロは16歳で、ブレシアの選手としてセリエAにデビューしたが、インテルに移籍してからは出番がなかった。

しかしブレシアに戻ると、バッジョの後方でプレーして才能を開花させた。

ピルロは元々はトップ下だったが、バッジョがそこにいるので、レジスタ(ボランチ)にコンバートされて輝くようになった。

レジスタは、指揮者の意味である。

ピルロのような巨匠レベルになると、レジスタからマエストロに呼び方が変わる。

ピルロは、ACミランでチャンピオンズリーグを制した2003年には、マエストロと呼ばれていた。

2006年W杯では、イタリア代表のゴールの大半はピルロを経由して生まれた。

彼がイタリアを世界一に導いたと言える。

イタリア代表でのピルロは、EURO2012の準々決勝、対イングランドのPK戦が忘れられない。

ピルロは3人目のキッカーだったが、スプーンキックをゴールのど真中に決めた。

この時のことを、彼はこう解説する。

「僕の出番が来た時、イタリアは1対2でリードされていた。

流れを変えるには、相手をビビらせるしかない。
だから一番難しいキックを選択して決めたんだ。」

このキックを見て浮き足立ったイングランドは、3人目と4人目が失敗し、イタリアは勝利した。

イタリア代表の練習では、ピルロは恐しく速いパスを仲間に出す。

矢のような彼のパスを受けられて、初めて一人前なのだ。

また試合中には、FWのバロテッリに怠け癖が出ると、ピルロはバロテッリの前方のスペースに強烈なバックスピンをかけたパスを落とす。

言葉ではなくパスによって、「ちゃんと走っていれば、ゴールが生まれたかもしれないんだぞ」と伝えるのだ。

ピルロは2006年あたりから、こういうことをやり始めた。

2011年にピルロは、長く在籍したACミランを離れた。

アンチェロッティ監督が去り、アッレグリが就任したミランは、体力偏重のサッカーに移行したからだ。

ピルロはユベントスに移籍したが、コンテ監督から「チームを仕切ってほしい」と要請された。

ユベントスはそれからリーグを2連覇した。

(2024年6月10日に作成)


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