(以下は『フットボリスタ 2009年11月11日号』から抜粋)
UEFAが調査したメディカル・レポートによると、サッカー選手は1年のうちに1~2回はケガをするのが普通で、3年に1度は大ケガをする可能性がある。
このメディカル・レポートを欧州のビッグクラブ(登録選手は25人を想定)に当てはめると、1シーズンのうちに、のべ45人のケガ人が発生する計算だ。
ケガの半数は1週間以内の軽症だが、シーズンのどの時期でも2~3人はケガで離脱している計算となる。
今期のレアルマドリードを見ると、9~10月の2ヵ月でケガしたのは9人だ。
4人が軽症、3人が中症、2人が重症で、1シーズン (9ヵ月間)で45人という平均値とほぼ同じペースだ。
オーウェン・ハーグリーブスは、イングランドきってのボランチで、2007年7月にマンチェスターUに入団した。
しかし08年9月に膝の大ケガをし、両膝を手術するなどして、09年10月時点でまだ復帰していない。
バルセロナにいるDFのガブリエル・ミリートは、2008年4月に右膝の前十字靭帯断裂という大ケガをした。
同年5月に手術をしたが、1年半が経った今もリハビリ中だ。
ミリートは手術後も痛みがとれず、再手術をしている。
ちなみに、前十字靭帯を傷めた場合、靭帯を作り治す手術をする。
手術後は6~8ヵ月ほどリハビリをするのが一般的だ。
アーセナルのトマシュ・ロシツキーは、2009年9月に20ヵ月ぶりに復帰した。
彼は治りかけては、また別の部位を痛めることをくり返してきた。
彼が最初のケガをしたのは2008年1月で、太腿の裏を傷めた。
そしてリハビリ中に膝をケガして、その後も練習中に古傷のハムストリングスを傷めた。
今は復帰したが、先発と途中交代をくり返している。
ACミランのアレッサンドロ・ネスタは、2008年7月に自宅で腰を痛めた。
椎間板ヘルニアだった。
これは身体を酷使してきたからで、腰椎の間にある軟骨状の椎間板が飛び出し、神経を圧迫する病気だ。
普通は自然治癒を待つが、痛みがひどいと手術して突出部分を摘出する。
手術に失敗すると選手生命が終わるので、手術は最後の手段である。
ネスタは自然治癒を待ったが、何度も痛みが再発したため、2009年2月に手術した。
幸い、手術は成功し、今は復帰してキエーボ戦では2ゴールを上げた。
ASローマのフランチェスコ・トッティは、34歳になった今もチームの中心である。
しかし彼は長くケガと戦ってきた。
まず骨折と靭帯損傷の大ケガから復帰して、2006~07シーズンに得点王になった。
しかし07年10月に右足首の捻挫をし、08年4月には右膝の前十字靭帯を損傷した。
08年9月には右膝のしつがい腱炎。これは09年2月に再発した。
トッティは、自らが最前線に位置する「ゼロトップ」の布陣で活躍してきた。
しかしケガで離脱することが多いので、ローマのスパレッティ監督はトップ下でプレイするようトッティに求めた。
ところがトッティは、「最前線でプレーするのがチームに最も貢献できる」と譲らない。
そしてスパレッティは辞任してしまった。
トッティは2009年10月に右膝の半月板を痛めて、手術を行った。
全治3カ月と診断されている。
トットナムのレドリー・キングは、慢性的な膝のケガを抱えている。
最初にケガしたのは2006年で、専門医も痛みの原因を究明できていない。
試合に出ると膝が腫れてしまうので、翌日からのチーム練習に参加できない。
キングはほとんどチーム練習に加わっていない。
トットナムでキングとCBのペアを組んでいるウッドゲイトも、ケガだらけだ。
ウッドゲイトは、レアルマドリードにいた2シーズンは、わず12試合しか出場できなかった。
今季もそけい部のケガで出遅れ、初出場した試合で脳しんとうを起こし退場してしまった。
バレンシアのビセンテは、2004年9月に左足の靭帯を損傷した。
注射を打って強行出場してはケガを再発させ、最終的に手術となった。
翌シーズンには右足首を痛め、両足首をかばうため筋力トレーニングに励んだ。
しかし2006~07シーズンには、きたえたはずの筋肉でケガが始まり、ハムストリングに裂傷を負った。
現在は臀部にケガを抱えている。
バレンシアでは同じポジションでシルバやマタが台頭しており、ビセンテは放出されるかもしれない。
アリエン・ロッベンは、2004年にチェルシーに入団した。
しかし直後の8月に中足骨を骨折。
このシーズンは復帰後も、05年2月にケガで離脱した。
05~06シーズンも、ベンチにシグナルを送って途中で交代することが多かった。
06~07シーズンは、足首、ふくらはぎ、ハムストリング、太腿とケガを重ね、07年3月に膝の手術となった。
2007年夏に3600万ユーロの移籍金でレアルマドリードに移ったロッベンだが、レアルに在籍した2シーズンで10回もの負傷離脱をして、「ガラスの選手」と評された。
2009年にバイエルンに移籍した。
パブロ・アイマールは、ケガに泣かされてきた。
彼はトップ下でプレイするため激しい当たりを受けるし、痛みがあっても出場してしまう性格なのが災いした。
だがベンフィカに2008年に移籍すると、特別プログラムで身体をきたえて復活した。
そしてアルゼンチン代表にも復帰した。
バイエルンにいたセバスティアン・ダイスラーは、「もう自分の膝が信じられない」と言って、2007年1月に引退した。
5度の手術で膝はボロボロになり、うつ病にもなっていた。
100年に1人の天才とも期待されていたが、27歳での引退だった。
ダイスラーは、1998年9月に右膝の十字靭帯断裂と半月板損傷で手術となった。
その後も、右膝のケガと手術をくり返してきた。
ドイツ代表に選ばれていたが、ケガのため2002年と2006年のW杯に出られなかった。
ダイスラーは2009年10月に自伝を出版したが、引退の理由の1つに「バイエルンでチームメイトから(ケガの件で)陰口を叩かれ、それが我慢できなかった」と書いている。
このため彼は、引退会見の後にチームメイトの誰にもあいさつせずにクラブハウスから去っている。
チェルシーのGKチェフは、2006年10月14日の試合でスティーブン・ハントとぶつかり、頭蓋骨陥没の大ケガをした。
ひどいケガだったので、ハントは非難を浴び、脅迫状が届いて警察沙汰にまでなった。
チェフのいたチェルシーのファンは、今でもハントを許していない者が少なくない。
スペインリーグで、1998年2月1日にミチェル・サルガドが、 ジュニーニョ・パウリスタの左腓骨を折るプレイをした。
動画で見ると、踏みつけられたジュニーニョの足首は、ぐにゃっとねじれている。
ブラジル代表でスタメンだったジュニーニョは、このケガでフランスW杯に出られなくなった。
サルガドは4試合の出場停止と罰金を受けた。
ジュニーニョは100m10秒代のスピードだったが、復帰後は靭帯のケガをくり返し、スピードもおとろえた。
2008年2月23日に、バーミンガムのCBのマーティン・テイラーは、アーセナルのFWのエドゥアルド・ダ・シウバに激しいタックルをした。
エドゥアルドは左足腓骨を複雑骨折し、左足首も脱臼した。
アーセナルのベンゲル監督は、 「テイラーは生涯サッカーをするべきでない」と激怒した。
FIFAのブラッター会長も、「通常以上の罰則を与えるべき」と、イングランドサッカー協会に忠告した。
エドゥアルドは1年後に復帰したが、身体のキレは戻っていない。
テイラーは現在、2部のチームにいて、足首のケガで出場していない。
(以下は『週刊サッカーマガジン 2007年4月17日号』から抜粋)
現在、サッカー選手たちは過酷なスケジュールで疲労し、ケガが多発している。
ティエリ・アンリはその1人で、ドメネク監督によってフランス代表の親善試合に招集され、ついに大ケガをしてしまった。2007年3月の出来事である。
アンリは2006年のW杯に出場し、(フランスは決勝まで進んだので)この大会のため2ヵ月間も時間をとられて、充分に休めないまま2006~07シーズンに入っていた。
同じく2006年W杯に出場して優勝したイタリア代表のフランチェスコ・トッティは、(体調を考えて)1年間はイタリア代表でプレーしないことを表明し、ドナドーニ監督はそれを認めた。
(※トッティは結局、このままイタリア代表から引退した)
サッカーの神様と呼ばれるペレは、現役時代にブラジル代表とサントスの選手として、1年に100試合もプレーしていた。
ペレの才能で金もうけするために、オーナーたちがこき使ったのだ。
ペレは、「ブラジル代表とサントスの欧州遠征から戻った時、サッカーをやめたいとまで考えた。過密なスケジュール、非人間的な役員たちの要求に耐えなければならないのか」と語っていた。
(2024年7月12&13日に作成)