ジーコの話①
生誕からプロデビューまで

(以下は『ジーコ自伝』から抜粋)

私は1953年3月3日に、6人兄弟の末っ子として、リオ・デ・ジャネイロに生まれた。

父はポルトガル出身で、移民としてブラジルのリオ・デ・ジャネイロに来た人だ。
私が生まれた時、父は洋服の仕立て屋として、自分の店を持っていた。

私は成長が遅く、6歳まで母乳を飲んでいた。
食は細く、痩せていて、末っ子なのもあり保護に育てられた。

9歳年上の長男ゼッカは、人一倍私の面倒を見てくれた。

父は子供に厳しく、私たちが母に口答えすると全員が一列に並ばされて、ベルトでぶたれた。
だが私だけは免除されていた。

私の本名はアルトゥールだが、それがアルトゥズィーコになまり、簡略化されて「ズィーコ」(ジーコ)になった。

父はサッカークラブのフラメンゴの大ファンだった。

だが父は、息子たちがプロサッカー選手になることに反対だった。
当時のプロ選手たちが、酒飲みで品性がなくプレイボーイだったのと、カネや移籍のトラブルが多く報道されていたからだ。

長男のゼッカは、父に内緒でフルミネンセの練習に参加し、プロ契約した。
父は反対したが、結局は黙認した。

だがゼッカは、契約や移籍のトラブルに巻き込まれ、チームを転々とし、実力を発揮できずに引退した。

ゼッカに続いてプロ選手になった三男のエドゥーも、同じ境遇になった。

私は兄たちを見て、プロサッカー界の「駆け引き」や「取引」を知った。

プロサッカー界は、利害で様々な人間が蠢いている。
サッカーが上手ければ成功するという考えは幻想であり、醜く汚い世界である。

私も後にこの事を、身をもって体験することになる。

ゼッカがプロになり、フルミネンセで活躍すると、おかしな連中が近づいてきた。

彼らは代理人と称して、サッカークラブの幹部と結託し、悪い条件でゼッカにクラブと契約させて、自分がカネを得た。

ゼッカはわずかな給料でプレーしなければならなかった。

エドゥーの時も同じだった。

私は兄を見て、どんなに実力があっても成功するとは限らないことを知った。

私が子供の頃、フラメンゴにはヂダというスター選手がいた。
私はヂダのプレーを見てあこがれ、どんどんサッカーにのめり込んでいった。

子供の私は、あちこちの草サッカー・チームに助っ人として参加するようになった。
助っ人にいくと、おこづかいやサンドウィッチがもらえた上に、色んな選手のプレーに触れられた。

私がフットサルのチームで1試合で9得点すると、フラメンゴのテストを受けないかと誘われた。

こうして1967年に、14歳の私はフラメンゴ・ユースのテストを受けた。

テストの前日の夜はほとんど眠れなかった。眠れずに朝を迎えて家を出発した。

フラメンゴのユース監督モデスト・ブレーアは、私の身体が小さいので、哀れみとも思える笑えをうかべた。

私の兄エドゥーも、身体が小さくて、1968年にブラジル代表に入ったが、1970年W杯のメンバーに残れなかった。

エドゥーが身体の小ささで悩む姿を、私は見ていた。

だが私はテストに合格し、フラメンゴ・ユースに入団した。

私は当時から、常に考えながらプレーしていた。
ピッチのコンディションや試合展開、 相手チームの戦術や弱点などをだ。

ゼッカは私の試合を見ると、いつも細かくアドバイスをくれた。
ポジショニングの取り方や試合運びなど、細かいことを、私のミスを指摘しつつアドバイスしてくれた。

私がフラメンゴ・ユースに入団すると、現役プロ選手のゼッカは私にこう言った。

「いいかジーコ。お前はサッカー選手になるために生まれて来た人間で、プロでもきっと成功する。

ただし成功するには努力が必要だし、同世代の連中が楽しむこと、酒やタバコや女の子の誘惑から自分を守る強い精神力が必要だ。

プロとして活躍できる期間は限られているし、お前の敵はライバルだけでなく、お前自身だということを忘れるな。」

フラメンゴのユースに入ったが、1967年、68年とあまり活躍できなかった。

私は朝5時半に起床し、2時間バスに乗ってフラメンゴの練習場へ行く。
8時半から11時まで練習で、シャワーを浴びて昼食をとり中学校へ。
学校の授業を17時まで受けて、2時間かけて帰宅する、という生活になった。

ユースに入ってもフラメンゴからカネは一切出ず、往復のバス代が家計の大きな負担となった。

私は練習場に行くバス代がなくて、練習を休んで草サッカーの助っ人をし、こづかい稼ぎをしてバス代に充てたりした。

この事を知ったフラメンゴ幹部のジョルジ・ヘラールは、自分の財布から交通費と食費を援助してくれた。
この援助は私が18歳になるまで続いた。

1969年に入っても、私の成績は伸びなかった。
その理由は、身体が小さくて細かったからだ。

40kg足らずの私は、身体の競り合い、ぶつけ合いに弱かった。

私の兄エドゥーも、身体が小さいことでプロになってから苦労していた。

ある日、ユースのジョベール監督が、私にこう言った。

「君は本当によくやっているが、今の身体では活躍は無理だと思うんだ。

そこで相談だが、君の肉体を改造したいんだ。
チームドクターやフィジカルコーチとも相談した結果だ。」

費用はジョルジ・ヘラールが全て負担してくれるという。
私はスタッフたちに感謝の気持ちで一杯になった。

こうして私は、肉体改造に取り組むことになった。

まず行ったのは全身の検査で、何日もかけてデータを採った。
そのデータを使って、トレーニング・メニューと食事メニューが作成された。

ホルモン注射と何種類ものビタミン摂取が義務づけられた。

食事は1日5食となり、母は薬の力に頼りたくないと考えて、栄養バランスのとれたメニューを考案してくれた。

私は17時に学校の授業を終えると、週3回、コエリオ・アカデミーで2時間のウェイト・トレーニングを行った。

土日には試合か合宿があるので、休日が無くて心身共にくたくたになった。

疲れ切った私には、コーチの指導に疑問をもつ余裕も、反抗する気力もなかった。

ウェイト・トレーニングは、90日の休みを入れつつ、半年ずつ2ピリオド続けられた。
私の身体は太くなっていった。

トレーニングの合間に、持病だった扁桃腺を手術し、歯の治療をし、顔(頬)のシコリも切除した。

マスコミが私を「サイボーグ」と呼んだのは、こうした事からだ。

身体が太くなったことで、1970年は22試合で27得点をとり、ユース・リーグの得点王に輝いた。

1971年、私が18歳の時、フラメンゴのトップチームに引き上げられた。

7月29日に1部リーグのデビュー戦となったが、2アシストした。

このシーズン、私は17試合で2得点だったが、1部リーグでやっていける自信を得た。

1972年になると、私はオリンピック代表に選ばれ、オリンピック出場権をかけてアルゼンチンと戦った。

この試合で私は得点し、1対0でブラジルが勝ち、 ミュンヘン・オリンピックへの出場を決めた。

長男のゼッカは、1964年の東京オリンピックのメンバー入りが確実視されたが、所属チームのフルミネンセと契約上のトラブルがありメンバーから外れた。
三男のエドゥーも、1968年のメキシコ・オリンピックに向けた代表チームに招集されたが、最終的にメンバーから外された。

この過去があったので、私はどうしてもオリンピックに出場したかった。

この年、フラメンゴの監督はソリッチからザガロに代わったが、ザガロは私に対し「君の身体は小さいし痩せすぎだ」と言って、ユースに降格させた。

私は失望したが、当時はオリンピックにアマチュア選手しか出場できなかったので、ユース降格を受け入れて、オリンピックに出場することにした。

オリンピックに向かうブラジル代表メンバーの発表日、私がトレーニングを終えて帰宅したところ、エドゥーが玄関先で待っていた。

エドゥーは、「残念だけどお前は選ばれなかった。今日のことは早く忘れて、ユースでがんばって奴らを見返してやれ。辛いだろうが俺たちはお前の味方だ。」と言った。

私はすっかり動転し、「アントニョーニ監督は絶対に僕を選ぶと約束した。きっと何かの間違いだよ。」と言った。
泣き出しそうになりながら私は、「アルゼンチン戦で僕がゴールを決めたから、ブラジルはオリンピックに行けるんじゃないか! こんな事ってないよ」と言った。

エドゥーは諭すように、こう言った。

「俺もメキシコ大会の時に同じような目に遭っている。
お前の気持ちは痛いほど分かるが、これがサッカーなんだ。

実力の世界って言うけど、そんな綺麗な世界じゃないんだよ。」

私はオリンピック代表から外されたことで、心身共にボロボロになり、人間不信になって絶望した。

サッカーを辞めることを真剣に考え始めた。

練習にも身が入らなくなり、しばしば練習中に吐き気をもよおすようになった。
人生で初の挫折感だった。

私はユース選手権の決勝戦に出場したが、体調が悪くて、監督に申し出て前半だけでベンチに下がる気持ちになった。

1対0でハーフタイムになり、更衣室に戻ると、ゼッカが待っていた。

私が「もう走れない。兄さん、ベンチに下がろうと思う」と伝えると、兄は目の色を変えて怒った。

「弱音を吐くんじゃない!お前は大きなチャンスを逃すのか。優勝は目の前だぞ。もうひと頑張りしてこい。」

ゼッカがこれほど怒ったことは、後にも先にも無い。

ゼッカは最後に私の目を見て言った。「ジーコ、お前にはサッカーしかないんだ!」

私は目が覚めたような気がし、後半に1得点して、フラメンゴが勝った。

1973年になると、私は再びフラメンゴのトップチームに引き上げられたが、控え選手の 立場だった。

監督の言うままに多くのポジションで途中出場したが、この経験は大きな収穫だった。

私はいつ試合に出るか分からず、試合の流れやポジショニングを瞬時につかむ能力が高まった。

そして状況に応じてバリエーションに富んだプレーが出来るようになった。

同じポジションを続けていると、プレースタイルがパターン化し、創造力が欠如してくる。

プレーのパターンが読める選手は、相手にとって脅威にならない。

試合では何が起こるか分からない。だから一流選手には、試合展開に応じてプレースタイルを変える創造性と技術が必要だ。

ここからは私の恋愛話に入る。

私が妻となるサンドラと知り合ったのは、17歳の時で、サンドラは14歳だった。

サンドラの姉と私の兄エドゥーが恋人関係で、その縁で知り合った。

サンドラは両親から、男と付き合うの15歳からと言われていた。
だから私は彼女の15歳の誕生日に、両親に「おじょうさんとの交際を許して下さい」とお願いした。

この時から結婚を意識した交際が始まった。

サンドラと付き合い始めた時、私は肉体改造のトレーニングで忙しい生活を送っていた。

だが彼女はわずかな時間を共にすごすため、私の家の玄関先で帰りを待っていてくれた。

1974年8月に私たちは婚約し、75年12月に結婚した。
私が22歳、サンドラが19歳だった。

私が海外のチームに移籍した時、海外生活に彼女は不満を言わず、それが大きな救いとなった。

1985年に私が膝の大ケガをして、1年以上のリハビリ生活をした時も、彼女は支えてくれた。

私は幸運にも、17歳で人生のパートナーにめぐり合えた。

(2025年6月21~24日に作成)


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