ジーコの話②
ブラジルリーグでの大活躍

(以下は『ジーコ自伝』から抜粋)

1974年になると、私の所属するフラメンゴの監督が、ザガロからジョベールに代わった。

ジョベールは、私がフラメンゴ・ユースにいた時期にユース監督をしていて、私の肉体改造を提案した人でもあり、気心のしれた仲だった。

彼の下で私はユース選手権の得点王になっていたし、当然レギュラー・メンバーに選んでくれると思った。

ところが紅白戦で、控え選手用のTシャツを渡された。

怒りからグラウンドを去ろうと思ったが、チームメイトのアリルソンが「ジーコ、落ち着け」と声をかけてくれた。

アリルソンは元ブラジル代表のFWで、ベテラン選手だが、彼も控え用のTシャツだった。

彼は言った。「こうなったら今日の紅白戦で実力を見せるしかないぞ。」

紅白戦は3対1で控えチームが勝ち、私は2ゴールを決めた。アリルソンも1ゴールした。

翌日にジョベール監督が言った。「ジーコ、君がレギュラーに入る。ダリオを外すことにした。」

ダリオはフラメンゴのスター選手だったが、彼からポジションを奪い、10番をつけることなった。

背番号10の選手は、チームの中心選手だが、必要なものはまず豊かな発想力と創造性だ。
それに技術、経験、人望も必要だ。

10番とは、彼が何とかしてくれるという安心感をチームやサポーターに抱かせる選手だ。

私がフラメンゴの10番になった時、親友のジェラルドも一緒にレギュラーとなった。

私たちはユース時代からパートナーで、相手の目を見ただけで次のプレーが分かる仲だった。

ジェラルドは決して下を向かないのに、ボールは足元から離れず、そのボールコントロールは魔法であり芸術だった。

私たちは家が近いのもあり、子供の頃からいつも一緒に草サッカーをしていた。

ジェラルドは天才肌で、規則や練習が嫌いで、不摂生な生活をしていた。
だが彼のパスは奇蹟的なもので、そのボールコントロールはため息が出るほどだった。

1974年のリオ州選手権で、私たちフラメンゴは優勝した。

私たちへの注目度が高まり、私は周囲の期待に応えるため、FKとPKとドリブルの練習に励んだ。

この年の私は、65試合で49得点した。
この記録は、ヂダの持っていた46得点を破り、フラメンゴのチーム記録となった。

私はブラジル最優秀選手にも選ばれたが、この年のW杯・西ドイツ大会のブラジル代表には入れなかった。

1975年になると、私に対するラフプレーが増えてきて、私のケガも増えてきた。

「ブラジルには2つの国がある」と言われるほど、リオとサンパウロはライバル関係にある。

私はリオを代表するサッカー選手になってきて、リオのマスコミは褒めるが、サンパウロのマスコミは激しくけなすようになった。

サンパウロのマスコミは、私のフィジカル・コンタクトの弱さを過大に報じて、「FKかPKでしかゴールを決められないし、ブラジル代表には向かない」と書いた。

1976年に私はフラメンゴで56得点し、ブラジル代表にも初めて選出された。

だがグワナバラ杯の決勝戦では、私がPKを外して負けてしまった。

1976年8月に、親友でチームメイトのジェラルドが急死した。

彼は扁桃腺に持病があり、チームが手術させたところ、手術中に麻酔のミスで事故死したのだ。

ジェラルドは22歳のまま、今も私の心に生き続けている。

1978年W杯に私が出場し、敗退してブラジルに戻ると、ブラジル代表監督のコウチーニョがフラメンゴの監督に復帰した。

この年にフラメンゴのユースから上がってきたのが、ジュニオールだった。
彼は今で言うウイングバックの選手で、サイドバックなのに攻撃もする選手だ。

当時のフラメンゴには、他にもロンディネーリ、チッタ、アジーリオ、アンドラーデ、ヌーネスというすばらしい若手選手がいた。

私たちは皆で知恵をしぼり、戦術を練り上げていった。

1978年のフラメンゴは、グワナバラ杯とリオ州選手権に優勝し、私は初めて得点王をとった。

ボールが来てから次のプレーを考えていたのでは、相手にボールを取られてしまう。
自分にボールが来た時点で、すでに次のプレーが頭に描かれていなければならない。

試合中に自チームがスランプに陥った時は、思い切ってプレイスタイルを変えるべきだ。
試合の流れを読み、タイミングを計ってここだ!と思う時にがらりとプレイスタイルを変える。そうすることで相手のリズムを崩し、試合の流れをこちらに持ってくる。

これを行うには、プレイスタイルを増やす必要がある。

1979年6月に、世界選抜チームと1978年W杯で優勝したアルゼンチン代表のドリームマッチがあった。

私は世界選抜で出場し、1ゴール1アシストした。
私のアシストでイタリア代表のパオロ・ロッシが得点した。

アルゼンチン代表のほうは、マラドーナが1得点した。
(※マラドーナは78年W杯に出ていないが、この試合には選出された)

2対1で世界選抜が勝ち、私のプレーは世界中で注目された。
私は世界トッププレイヤーの仲間入りをしたと実感した。

1979年のフラメンゴは、前年に続けてグワナバラ林とリオ州選手権で優勝し、私は2年連続で得点王になった。

フラメンゴのMFにリコが加わると、それまで以上にリズムが生まれた。

私がフラメンゴのベストイレブンを選ぶなら、必ずリコを入れる。それ位にサッカーを知っている選手だった。

1980年にフラメンゴは、ブラジル選手権で初優勝した。

ところが81年のシーズン開始前に、コウチーニョ監督が辞任した。

フラメンゴの経営陣にコウチーニョを嫌う者がいて、追い出されたのだ。
数年後には私も、その連中と関係が悪化して、イタリアのウディネーゼに移籍することになる。

コウチーニュ解任の件で、「サッカー界は何が起きるか分からない」と私は痛感した。

新監督にはカルペジャーニが就任した。

1981年11月に行われた、フラメンゴとチリの強豪コブレロアとのリベルタドーレス杯・決勝戦は、戦争のような試合だった。

第2戦はコロブレアのホームだったが、コロブレアのラフプレーを審判は見逃し、ラフプレーを受ける私たちがイエローカードをもらった。
ジュニオールは踏みつけられ、リコら数人が歯を折られた。
私も、ユニフォームやソックスがボロボロになった。

もはや試合ではなく、集団リンチだった。
ラフプレーに拍手する観衆を見て、私は愕然とした。

第3戦では、カルペジャーニ監督がラフプレーを指示して、アンセルモが相手選手の顔面を殴るアクシデントもあった。私は呆然とした。

試合はめちゃくちゃだったが、フラメンゴがリベルタドーレス杯で初優勝した。

同じ11月に、コウチーニョ元監督がスキューバ・ダイビング中に死亡した。

だが私たちは傷心を乗り越えて、リオ州選手権で優勝した。

リベルタドーレス杯をとったフラメンゴは、1981年12月13日にトヨタカップでリバプールと対戦した。

試合前、私はヌーネスに言った。
「ヌーネス、今日は少し下がってプレーしてくれ。相手チームは私をマークしてくるだろうから、私が囮になる。空いたスペースに入っていって思い切りプレーしてくれ。」

私の狙いは的中し、ヌーネスは2得点した。

3対0でフラメンゴが勝ち、私は3アシストでMVPに選ばれた。

1982年に入ってもフラメンゴは好調で、ブラジル選手権で優勝した。

(2025年6月24日、7月2日に作成)


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