ジーコの話③
W杯のこと

(以下は『ジーコ自伝』から抜粋)

🔵1978年W杯・アルゼンチン大会

1978年のW杯アルゼンチン大会は、私が初めて出場したW杯だが、今から考えるとアルゼンチンが優勝するように仕組まれていた。

アルゼンチンは、2年前にクーデターで軍事政権が樹立していた。

この大会の初戦、ブラジル代表はスウェーデンと対戦した。

試合終了直前に私はゴールを決めたが、レフェリーはなぜか無効にした。

レフェリーは試合終了のホイッスルが鳴った後のゴールだったとしたが、後でビデオで確認しても私がゴールを決めた後にホイッスルは吹かれていた。

二次リーグでブラジルは、同組のアルゼンチンを得失点差でリードした。
(※当時のW杯本大会は二次リーグがあった)

ところが最終戦でブラジルはポーランドに3対1で勝ったが、アルゼンチンはペルーに6対0と大差で勝ち、得失点差でアルゼンチンが決勝に進むことになった。

このとき、アルゼンチンとペルーは裏取引があったと言われている。

私はこの八百長に失望し、身も心もズタズタになった。
W杯は単なるスポーツ・イベントではないことを、私は知った。

🔵1974年W杯

1974年W杯のオランダ代表は、創造性と意外性にあふれたサッカーだった。(※クライフが居た時の、トータル・フットボールと呼ばれたオランダ代表である)

私はのちになってから、当時のオランダ代表監督や選手に話を聞いてみた。

すると意外なことに、あのチームには戦術はなく、練習時間もなかったと言うのだ。

それでやむをえずチームのコンセンサスを「全員攻撃・全員守備」と決め、自由なプレーを重視したと言う。

クライフという天才がいたし、他にも優れた選手がいたから、この戦術が採れたのだろう。

🔵1982年W杯

1982年W杯のブラジル代表は、「ブラジル史上最強」と呼ばれ、芸術的で美しいサッカーを目指した。
監督はテレ・サンターナだ。

テレは華麗で美しい攻撃サッカーを目指しており、紅白戦を重視する練習メニューだった。

テレは、練習では口うるさいが、試合では選手を自由にプレーさせる監督だった。

テレは、ブラジルの地域紛争をサッカーに持ち込まなかった。

ブラジルは、リオとサンパウロが敵視し合っていて、リオ出身の監督ならリオ中心で、サンパウロ出身ならサンパウロ中心で、代表選手を選ぶのが慣例になっていた。

だがテレの選考は偏らず、実力で選手を選んだ初めての代表監督だった。

この結果、リオ出身の私は、サンパウロ出身のソクラテスと仲良くなる機会を得た。
私とソクラテスは、チーム内に派閥を作らないと決めた。

1982年のブラジル代表は、お互いの目を見ただけで先の先を読んだプレーができた。

MFに私、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾの「黄金の4人」がいて、さらにジュニオール、エデール、ヌーネス、オスカーもいた。

だがこれほどハイレベルなチームでも、ワールドカップで優勝は出来なかった。

私たちは決勝リーグの初戦で、マラドーナが率いるアルゼンチンに3対1で圧勝した。

だが次のイタリア戦で、FWのパオロ・ロッシ1人に翻弄され、ハットトリックを決められて、2対3で負けてしまった。

私たちは先取点を取られたことで慌ててしまい、特に3点目を取られた後は冷静さを失って、本来のプレーを忘れて自滅してしまった。

このブラジル代表は、守勢になった時にもろさがあり、がむしゃらな闘争心に欠けていたのかもしれない。
私はエース番号10を着けていたから、大きな責任を感じた。

ブラジルのマスコミは、「史上最大の番狂わせ」と書き立てた。

🔵1986年W杯

1986年のW杯は、ブラジル代表はテレ・サンターナ監督の下で、82年の代表チームに負けない戦力があった。

だが私は、85年に左膝の大ケガをして万全ではなかった。

ブラジルは決勝トーナメントの準々決勝でフランスと当たった。
私は後半に投入されたが、直後にブラジルがPKを得た。

PKは私が蹴ることになっていたが、私は出場したばかりで身体が温まっていないのでソクラテスにボールを渡した。
するとソクラテスは私にボールを戻した。

私はこのPKを決められず、ブラジルは負けてしまった。
一生悔いの残るミスとなった。

(2025年7月2日に作成)


【サッカー】 目次に戻る

【サイトのトップページ】に行く