(以下は『ジーコ自伝』から抜粋)
🔵イタリア・リーグへ移籍
1980年代に入るとブラジルは不況になり、サッカーの観客も減少して、選手の年棒を支払えないクラブも出てきた。
するとイタリアのサッカー1部リーグ「セリエA」が、ブラジル選手の引き抜きを始めた。
移籍交渉は、たいていは選手の知らない所で、クラブ首脳が進めた。
スター選手の外国移籍で、サポーター離れが加速した。
1982年に私の所属するフラメンゴは、グワナバラ杯の5連覇を達成した。
さらにブラジル選手権も優勝した。
だが私は、83年6月にイタリアのウディネーゼに移籍した。
私がイタリア・リーグに行く前、先行してASローマにファルカンが移籍し、トニーニョ・セレーゾと共にローマをリーグ優勝に導いていた。
私はイタリアに行く気は無かったのだが、フラメンゴとの契約更新の話し合いで年棒に満足がいかなかった。
渋る私を見たフラメンゴのアブランチェス会長は、私のパス(保有権)をウディネーゼに売ることにした。
私の納得しないままに、移籍が決まった。
私は自分が「商品」でしかない事を痛感した。
フラメンゴは移籍金として400万米ドルを得たと言われている。
ウディネーゼには、元ブラジル代表のエジーニョがすでに入団していた。
だが私のワンマンチームといえる状態で、選手補強は進まなかった。
1983-84シーズンは、ウディネーゼは何とか一部残留を決め、私はリーグMVPを受賞した。
プラティニが20得点で得点王になり、私は19得点で2位だった。
🔵スキャンダル、告訴される
1984年3月に、私はスキャンダルに襲われた。
脱税と不法な海外蓄財でイタリア税務局に告訴されたのだ。
このスキャンダルは、イタリア・サッカー協会が大きく関わっていたようだ。
私はウディネーゼとサッカー協会の確執に巻き込まれたのだ。
裁判の結果、一審では罰金と8ヵ月の身柄拘束の判決だった。
私は控訴して、最終的に最高裁で無罪となったが、この間サッカーに集中できなかった。
私はイタリアに嫌気がさし、1984-85シーズンをもってブラジルに帰ることにした。
1985年5月23日にイタリアを離れたが、イタリアの空港で私が逮捕されるとの噂もあった。裁判が継続中だったからだ。
🔵大怪我
1985年に私は、古巣のフラメンゴに移籍して戻ってきた。
だが8月29日のバングー戦で、マルシオ・ヌネスが私の左膝を蹴り上げた。
膝を狙った意図的なファウルで、私はもんどりうって倒れた。
32歳だった私は、もう一度W杯に出場したかったので、懸命に治療した。
だが復帰してもプレーにキレがなく、思い切って手術することにした。
85年10月21日に半月板の手術をした。
86年2月17日のブラジルリーグ戦で復帰し、3得点して、通算700ゴールを達成した。
1986年W杯のブラジル代表に私は選ばれたが、テレ・サンターナ監督はスタメンにはジュニオールを起用した。
私が左膝をかばう事から、別の軽いケガをくり返していたからだろう。
この大会のブラジル代表は、82年の代表に匹敵する強さだった。
だが決勝リーグのフランス戦で負けた。
フランス戦で私は、PKを外す病根のミスをしてしまった。
テレ・サンターナ監督のサッカー哲学はすばらしかったので、優勝できなかったのは残念でならない。
W杯後、9月に私は再び膝の手術をした。
左足は数ヵ月もギプスで固定され、ギプスが取れた時、足の太さは半分に減っていた。
動かすたびに痛む左足を見て、絶望から自殺さえ考えた。
そんな中、1986年11月に父が死去した。
手術から半年たち、ようやく松葉杖で歩けるようになった。
トレーニングを再開したが、初めて走った時、あまりの激痛に絶句した。
私は「もう2度とサッカーはできない」と思い、悔しさで一杯になった。
涙を流している私に、だがフィジカル・コーチのラルフ・フェレイラは「明日もトレーニングをやるぞ」と言った。
私は絶望感で一杯だったが、激痛に耐えながら少しずつ走る距離を伸ばしていった。
1987年6月21日に、私は試合に復帰した。
私にとって、人生最大の障壁を乗り越えた、大切な試合となった。
もう私には、走り回ってゴールを狙うプレーは困難だった。
だから司令塔に徹するプレーに切りかえた。
ヘディングなどのジャンプ・プレーはもう出来なかった。
ところが87年のサンタクルス戦でフリーキックを決めた時、私は興奮して大きくジャンプしグラウンドを走り回ってしまった。
それで左膝がおかしくなり、再び半月板の手術となった。
だがこの手術は大成功で、膝は良くなった。
当時のフラメンゴは、マスコミに「養老院」と揶揄されていた。
私をはじめレギュラーメンバーがベテラン選手だったからだ。
だがベベットやレトナら若手選手の活躍もあり、ブラジル選手権で優勝した。
1989年12月2日の試合を最後に、私は現役引退した。36歳だった。
(2025年7月2日に作成)