コンゴ民主共和国の特徴と歴史

(『アフリカの曙光』松浦晃一郎著から抜粋)

(※以下の内容は、2009年出版の本からの抜粋です)

コンゴ民主共和国は、アフリカ大陸の中央に位置し、面積は234万5千平方メートル(日本の6.5倍)である。

人口は2008年時点で、6420万人だ。

国土の大半は熱帯雨林で、マウンテンゴリラと白サイという絶滅危惧種も生息している。

北部と南部はサバナ気候で、5つの世界自然遺産がある。(2009年時点)

中央部にはコンゴ盆地が広がり、それを蛇行しながらコンゴ川が流れている。

コンゴ民主共和国は、工業用ダイヤモンドとコバルトは、世界一の採掘量を誇っている。

他にも亜鉛、スズ、鉄鉱石、金、マンガンなどが豊富で、輸出の90%を鉱物資源が占めている。

民族としては、バンツー系が人口の80%を占め、250という非常に多くの部族から成っている。

言語は、フランス語が公用語で、キリンゴ語、チルバ語、リンガラ語、スワヒリ語が話されている。

1971年~97年には「ザイール共和国」を国名にしていて、その間は現在のコンゴ川もザイール川と呼ばれていた。

コンゴは、ベルギーの植民地になっていたが、1960年6月に独立を果たした。

しかし、その後に内戦が何度も起きている。

内戦が起きた理由は、多くの部族から成り国家意識が薄いこと、豊かな天然資源を欲しがった諸外国が軍事介入してきたこと、が挙げられる。

コンゴでは、15~16世紀にコンゴ王国が栄えた。

そこに金を求めてやって来たポルトガル人が、コンゴ王国と親交を結ぼうとした。

コンゴ王国の第6代国王ンジンガ・ンベンベ(1456~1542または43)は、ポルトガルの影響でキリスト教に改宗し、アフォンソ一世を名乗った。

アフォンソ一世は、コンゴの各地に教会を建てて、キリスト教を広めた。

アフォンソ一世は、ポルトガル国王のマヌエル一世と条約を結び、通商関係を結んだ。

通商条約の締結後、急速にコンゴから奴隷の輸出が拡大し、アフォンソ一世は禁止するようマヌエル一世に親書を送ったが、無視された。

ポルトガル商人は、コンゴ王国の金と奴隷で大儲けし、ポルトガルにとって重要な奴隷獲得地となった。

コンゴ王国は、最盛期においても現在のコンゴ民主共和国の東部までは支配できず、そこには酋長が支配する部族がいくつも存在した。

その地に、アフリカ東海岸からザンジバル王国が奴隷を求めて進出してきた。

ザンジバル王国はアラブ系で、現在のタンザニアのザンジバルを本拠地にしていた。

18世紀末までに、7万人近くが奴隷としてアラブ地域に連行されたと見られている。

19世紀になると、西ヨーロッパ諸国から多くのキリスト教の宣教師が、アフリカ大陸にやって来て布教活動をした。

これにより、アフリカの伝統文化が破壊されていった。

さらに布教活動と表裏一体となって、金、象牙、胡椒、ゴムなどが西ヨーロッパに輸出され、アフリカ大陸は植民地に転落した。

キリスト教の宣教師たちの中でも有名なのは、ロンドンの教会から派遣されたデイヴィッド・リビングストーンである。

リビングストーンは、布教のためアフリカに来て、探検中に行方不明になった。

そこで新聞記者のヘンリー・スタンレーが派遣されて、タンガニーカ湖の近くの村で発見した。

その後にスタンレーは、3年かけてコンゴ川を下り、大西洋に出る冒険をして、イギリス政府にコンゴの植民地化を強く勧めた。

しかしイギリス政府は賛成せず、ベルギー国王のレオポルド2世がスタンレーを支援することになった。

ヘンリー・スタンレーは、レオポルド2世の私的な団体「国際アフリカ協会」の支援の下で、コンゴ川の流路を確認(調査)し、拠点を各地に造った。

コンゴ民主共和国が独立した時に首都となったレオポルドヴィル(レオポルドの町の意味。現在のキンシャサ)は、その拠点の1つである。

14ヵ国が参加してアフリカ分割のルールを決めた「ベルリン列国会議」で、レオポルド2世はコンゴの支配権を得た。

ベルリン列国会議は、1884年11月から85年2月までドイツ帝国のベルリンにおいて、ドイツのビスマルク首相が開催した会議である。

レオポルド2世は、コンゴの支配権を得たので、私的な(国王が私有する)植民地として、「コンゴ自由国」を建国した。

コンゴ自由国は、コンゴ人を奴隷として扱い、象牙やゴムの採集の強制労働に使って、多くの死者を出した。

1908年にコンゴ自由国は、ベルギー政府の植民地となった。(※所有権が国王から政府に移った)

以後は人々を奴隷として使役する慣習は廃止されたが、コンゴ人に教育の機会は与えなかった。

そのため1960年にコンゴが独立した時、大学の卒業者はわずか7人しかいなかったと言われている。
(※7人の大卒者とは、おそらく海外留学した者だろう)

1958年ごろから、アフリカ大陸では独立の機運が高まった。

コンゴでも独立運動が盛り上がり、2人の指導者が現れた。
パトリス・ルムンバとジョゼフ・カサブブである。

独立を控えて行われた1960年5月の選挙では、ルムンバの率いるコンゴ国民運動が第1党になり、カサブブの率いるバコンゴ連合運動が第2党になった。

1960年6月に「コンゴ共和国」としてベルギーから独立すると、カサブブは大統領に、ルムンバは首相に就任した。

ルムンバはこの時35歳で、独立前にはベルギーの官憲に何度も逮捕された経験のある、独立運動の闘士であった。

独立から1ヵ月も経たないうちに、銅などの資源が豊富なカタンガ州では、カタンガ部族が創設したコナカ党の党首であるモイーズ・チョンベが、ベルギー政府の支援を得て独立を宣言した。

(※独立を苦々しく思っていたベルギー政府は、傀儡政権をつくろうとしたのである)

パトリス・ルムンバ首相は、国連に「平和維持軍を送ってカタンガの独立を阻止してほしい」と要請した。

これを受けて、国連軍がカタンガ州に入った。

ルムンバは、国連軍ではカタンガ独立の阻止は難しいと見て、ソ連に軍の派遣を要請した。

これを見て、西側諸国はルムンバを危険視した。(※当時は東西冷戦の時代である)

ジョゼフ・カサブブ大統領は、西側諸国を手を結び、ルムンバ首相と対決した。

この争いは、両者がお互いに罷免する事態となった。

この混乱の中、カサブブと手を結んだモブツ・セセ・セコ大佐が軍事クーデターを起こした。

さらに副首相だったアントワンヌ・ギゼンガが、東部の都市スタンレーヴィル(現在のキサンガニ)に新政権をつくった。

ルムンバは、スタンレーヴィルに向かう途中で、モブツ大佐の軍に逮捕された。

結局パトリス・ルムンバは、カタンガに送られて、1961年1月にモイーズ・チョンベが率いるカタンガ軍に殺害された。

ルムンバは、コンゴ独立の英雄として、独立後はコンゴの統一を守ろうとした殉教者として、歴史に名を残している。

1961年2月に国連の安全保障理事会は、コンゴ共和国の内戦を止めるため、武力行使を認める決議をした。

カタンガ州と中央政府が内戦を始めていたからである。

国連軍はコンゴに入り、カタンガ軍と戦闘を始めたが、61年9月に国連事務総長のダグ・ハマーショルドが休戦交渉のためコンゴに向かう途中で、飛行機の墜落で事故死してしまった。

私は1963年9月に、外務省・経済局中近東課(実質的には中近東アフリカ課)に配属された。

そして64年10月にコンゴ共和国の首都レオポルドヴィルに行ったが、直前の8月にカタンガ州はコンゴに再統一されて、人々の表情は明るかった。

再統一すると、カタンガ政府の首相だったモイーズ・チョンベはレオポルドヴィルに乗り込んで、コンゴ共和国の首相(大統領はカサブブがまだ続けていた)に就任した。

1960年に軍事クーデターでルムンバ内閣を倒したモブツ大佐は、65年11月にもクーデターを起こして、カサブブ政権を倒した。

そこからモブツの軍事政権が始まり、97年まで32年も続くことになった。

1966年にモブツ政権は、首都の名をレオポルドヴィルからキンシャサに変えて、翌67年には国名も「コンゴ民主共和国」に変更した。

1970年にモブツは、政党「革命民主運動(MPR)」を設立し、唯一の合法政党と定め、同党の代表として大統領に就いた。

71年には国名を「ザイール共和国」に改めた。

モブツ政権では汚職が広がり、モブツは莫大な個人資産を蓄積した。

しかし西側諸国は、モブツ政権を支持した。

1980年代になると、ザイール共和国は膨大な対外債務を抱えたため、IMFに支援を求めた。

しかしIMFが要求した改革をせずに見放された。

1980年代の後半に、私は日本政府のザイール援助を議論するため、IMFの報告書を見た。

そこには「モブツ大統領が、ザイールの中央銀行からヨーロッパにつくった自分の銀行口座に、数百万ドルを移すよう命じた」との記載があった。

1990年代に入ると、モブツ大統領は複数政党制を導入する憲法の作成に同意した。

しかし実行せず、首都キンシャサでは反モブツの勢力の騒乱が起きた。

さらに隣国のルワンダで、それまでフツ族によって弾圧されていたツチ族が政権をとり、仕返しを恐れたフツ族の難民100万人以上がザイール北東部に逃げ込んできた。

ツチ族のルワンダ軍は、ザイール東部に侵入して、フツ族と戦うようになった。

ザイールでは、故人パトリス・ルムンバを尊敬するローラン・デジレ・カビラが、反乱軍を率いて勢力を拡大していった。

モブツ政権を嫌う、隣国のルワンダ、ウガンダ、ブルンジ、アンゴラは、カビラ軍を支援した。

1997年5月にカビラ軍は、キンシャサに侵攻したが、すでにモブツ大統領は脱出してモロッコに亡命していた。
モブツは同年9月に病死した。

カビラが率いる反乱軍は、首都キンシャサを抵抗を受けずに制圧し、カビラは大統領に就任して、国名を元の「コンゴ民主共和国」に戻した。

カビラ大統領は当初、共に戦った(支援してくれた)ルワンダ軍の幹部たち(ツチ族)を、政権の中心に据えた。

しかし国民が強く反発したので、カビラはルワンダ軍の幹部たちを追放した。

するとその幹部たちは、コンゴ東部でツチ族の住民と共に反政府軍を形成し、ルワンダ軍の支援を得て各地を占領した。
これにウガンダ軍も合流した。

そこでカビラ政権は、近隣のアンゴラ、ジンバブエ、ナミビア、チャド、スーダンなどから軍事支援を得て、反政府軍との戦争を始めた。

こうして、新たな内戦が始まった。

この内戦の死者は、540万人以上と見られている。

2001年1月に、カビラ大統領は部下に暗殺された。

息子のジョゼフ・カビラ(29歳)が、暫定的に大統領を継いだ。

ジョゼフは、若い頃にタンザニアやウガンダで軍事訓練を受けたといい、父の反乱軍で大きな役割を果たしていた。

父が政権をとると、コンゴ軍の参謀総長になっていた。

ジョゼフ・カビラは、父よりも和平に真剣で、ルワンダ軍などの外国軍を撤退させる交渉をして、成功した。

2002年12月に、国内の全勢力が参加する和平合意を成功させて、内戦を終わらせた。

03年7月には、反乱軍や市民の代表を含めた暫定政権を、2年間の期限で樹立した。

ジョゼフ・カビラの暫定政権は、国内の様々な勢力を参加させた結果、副大統領は4人となり、閣僚も40人近くとなった。

そして各大臣の下に副大臣を2人ずつ置き、大臣と副大臣2人はいずれも異なる勢力から選んだ。

副大統領の1人となったザヒリ・ンゴマは、かつてユネスコの事務局で働いた経験があり、他にもユネスコの事業に関わる閣僚が15人もいた。

ユネスコの事務局長になっていた私は、コンゴを訪れてカビラ大統領やその15人の大臣らと会談し「キンシャサのユネスコ事務局を強化して、そこを通じて支援活動をする」と伝えた。

その後、コンゴ民主共和国は新しい憲法をつくり、2005年12月の国民投票でそれは認められた。

大統領選挙は憲法制定などで遅れて、06年7月に第1回投票が、10月に第2回投票が行われた。

1960年の独立以来、初めて複数の候補者がいる形で、大統領選挙が行われた。

1回目の投票では、ジョゼフ・カビラが45%の得票率で1位、ジャン・ピエール・ベンバ副大統領が20%で2位だった。

2回目の投票では、カビラが58%をとり当選したが、ベンバは納得せず首都で武力衝突が起きた。

ジョゼフ・カビラは、2006年12月に大統領に就任した。

ベンバは逮捕を恐れて、ポルトガルに家族と脱出した。

ベンバの支持者はコンゴ西部に多く、東部出身のカビラと対立している。

1960年のルムンバ内閣で副首相をつとめたアントワンヌ・ギゼンガは、上記の2006年大統領選挙に出馬し、第1回投票で3位となった。

ギゼンガは決戦投票(第2回投票)ではカビラを支持したが、その際に「カビラが当選したら首相に就く」との約束をした。

約束通りに、カビラ新政権で首相に任命されたが、08年9月に高齢(83歳になっていた)を理由に辞任した。

ギゼンガは、同じ党にいるムジトを後任の首相に指名したが、支持者たちは必ずしも納得していない。

コンゴ民主共和国の東部は、2009年の現在も140万人の国内避難民を抱えている。

そして東部の南北キブ州では、フツ族とツチ族の対立が続いている。

ツチ族のヌクンダ将軍が率いる軍は、南北キブ州の一部を占拠して、フツ族を殺していた。
このため政府軍が出動して、ヌクンダ軍と戦った。

ヌクンダ軍を支援しているのはルワンダ軍で、カビラ大統領はルワンダのカガメ大統領(ツチ族)と交渉して、軍の撤退を約束させた。

この交渉の仲介をしたのは、ナイジェリアのオバサンジョ前大統領だった。

2009年1月にヌクンダ将軍は、ルワンダ滞在中にルワンダ軍に逮捕された。

その後、コンゴ政府軍とルワンダ軍は共同して、フツ族の反乱軍の掃討を始めた。

だがコンゴ東部のフツ族の反乱は、あまり衰えていない。

(2022年9月22~23日に作成)


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