(『アフリカの曙光』松浦晃一郎著から抜粋)
(※以下の内容は、2009年出版の本からの抜粋です)
リビアの正式国名は、「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」である。
ジャマーヒリーヤとは、現在の最高指導者カダフィ大佐が1977年に行った「ジャマーヒリーヤ宣言」(人民に主権があるという宣言)にちなむ。
産業は石油業が主で、言語はアラビア語、宗教はイスラム教スンニ派ある。
この地は、古代エジプト王国の時代にはエジプトに食料を提供し、住民は農民および軍人として重用されていた。
その後、ギリシャ人が地中海に進出してくると、彼らは北アフリカ沿岸地域を「リビア」と呼んだ。
リビアとは、ギリシャ神話に登場するポセイドンの愛人の名前に由来している。
オスマン帝国の支配下に入ると、この呼び名はいったん消えた。
しかし1911年にイタリアが植民地にすると、リビアの名称を復活させて国名にした。
リビアは、面積は176万平方kmあり、日本の4.6倍である。
だが人口はわずか627万人(2008年)にすぎない。
国土の大半はサハラ砂漠で、国民の多くは北部の地中海沿岸に住んでいる。
サハラ砂漠は、かつては緑あふれる場所だった。
その証拠は、リビア南西部でサハラ砂漠の真ん中にある、タドラット・アカクスのロック・アート遺跡群だ。
ここには、象やキリンや鹿を描いた岩絵が残されている。
岩絵は前6000~3500年頃に描かれたと推測されている。
リビアは、ローマ帝国の時代には、ローマ人が植民地を造った。
レプティス・マグナ、サブラータ、ゴヤ(現在の首都トリポリ)の3都市は、ローマとの交易で繁栄した。
レプティス・マグナは北アフリカ最大のローマ植民都市で、サブラータにはローマ式の円形劇場が残されている。
この2都市は、保存状態が良いので世界遺産に登録されている。
トリポリは遺跡が破壊されてしまった。
5世紀には、イタリアからゲルマン民族が侵入し、7世紀にはアラブ人が入ってきた。
現在のリビア人は、原住民のベルベル人とアラブ人の混血といわれるが、歴史を見れば様々な民族の血が混じっている。
16世紀に入ると、オスマントルコ帝国の支配下に入り、20世紀の初めまで続いた。
オスマン帝国が弱体化すると、イタリアが侵攻してきて1911年に植民地にした。
第二次大戦中は、リビアは独伊軍と連合軍の激しい戦争の舞台となった。
結局、連合軍が勝利を収め、英仏がリビアの支配権を得た。
1952年になると、リビアは国連の決定により独立を果たし、酋長の1人がイドリス1世として国王に選ばれた。
この時点では農業と牧畜業の国であり、アフリカ大陸で最も貧しい国の1つだった。
ところが、1950年代の後半に石油が見つかり、経済状態は一変した。
私が初めてリビアを訪れた1964年3月は、石油ブームの真っ最中だった。
私は外務省に勤めており、日本政府の経済使節団に同行したのだ。
帰国後に報告書を提出したが、2つのことが指摘されている。
① 膨大な石油収入で農業と教育を開発しようとしているが、
人口は125万人にすぎず上手くいくか疑問だ。
② 国王のイドリス1世は80歳を超える高齢だが、行政権を
握っている。
隣国エジプトのナセル大統領の影響もあって、政治が不安定化
する兆しがあり、いずれ社会主義化に向かうであろう。
今から考えても、この2点は正鵠を射ていたと思う。
1969年9月に、カダフィ大尉の率いる若手将校たちは、無血軍事クーデターでイドリス1世を追放し、王制を廃止した。
カダフィは革命委員会をつくり、委員長の座に就いた。
そして国名を「リビア・アラブ共和国」に変えた。
カダフィは首相のポストに就き、大佐に昇格した。
以来、「カダフィ大佐」の名前で通っている。
首相のポストは72年に降りて、それからは政府ポストに就いていないが、最高指導者であるのは間違いなく、肩書は「革命指導者」となっている。
カダフィは、ベドウィン(アラビア半島の遊牧民)の出身で、エジプトのナセル大統領に憧れてナセル式の社会主義体制を導入した。
ナセルが1970年9月に亡くなると、後継者になろうとし、72年にはエジプト、シリアと共和国連邦を結成しようとした。
しかし3国の合意ができず、実現しなかった。
その後はエジプトとの関係は悪化し、カダフィの関心はアラブ諸国からアフリカ諸国に移っていった。
1977年には革命委員会を廃止して、全国人民会議に吸収した。
この会議の議長と書記長にカダフィは就き、ジャマーヒリーヤ宣言を行って、国名を「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」に変えた。
1980年代になると、アメリカと西欧は「リビアがテロリストを支援している」と言い出し、86年4月にはアメリカは首都トリポリとベンガジを空爆した。
この空爆はカダフィ暗殺を狙ったもので、カダフィは娘1人を失い、自身も傷を負ったという。
88年には、ヨーロッパからアメリカに向かうパンアメリカ航空機が、スコットランド上空で爆破され、乗客200人以上が死亡した。
米欧はリビアの差し金と考え、リビア人の2人を犯人として指名手配し、92年3月には国連安保理はリビアに対して経済制裁を採択した。
99年4月に、爆破犯の2人を、リビア政府はオランダに設けられた裁判所に引き渡した。
これを受けて、安保理はリビア制裁を解いたが、アメリカは単独で制裁を続けた。
2003年9月には、安保理は制裁を全面的に解除した。
同年11月にリビアは、大量破壊兵器の製造計画を放棄し、国際的な査察を受ける旨を発表した。
強硬な態度だったアメリカも、04年1月に経済制裁を解除することを決めた。
04年3月には、イギリスのブレア首相がリビアを訪れた。
カダフィが政権をとって以来、欧米首脳による初の訪問だった。
この後、フランスのシラク大統領やイタリアのベルルスコーニ首相もリビアを訪れた。
1999年にカダフィの声掛けで、『アフリカ統一機構(OAU)』を『アフリカ連合(AU)』に進化させる基本合意ができた。
この合意を基にアフリカ連合の憲章が作成され、各国の批准を得てAUは発足することになった。
AUは条約が2001年に発効し、02年7月に第一回会議が行われて正式に発足した。
『サヘル・サハラ諸国連合』は、カダフィの音頭で1998年に設立された機関だ。
現在(2009年)はサハラ砂漠周辺の28ヵ国で構成されていて、本部はトリポリにある。
カダフィの次男セイフ・アルイスラムは、国際親善基金の総裁を務めていて、2005年に訪日している。
三男のサーディは、リビア作家協会の会長で、01年に訪日している。
(2016年10月31日に作成)