スーダン史の概略

(『アフリカの曙光』松浦晃一郎著から抜粋)

エジプト南部からスーダン北部にかけての地域は、伝統的に「ヌビア」と呼ばれてきた。

古代エジプト王朝の時代に、ヌビアは支配下に置かれた。

エジプト王朝が衰えると、ヌビア人の反乱が起こるようになり、前8世紀ごろからヌビア人の王朝が出現した。

6世紀以降は、キリスト教を中核とする王国も生まれ、マクリア王国は14世紀まで存続した。

私が1999年にユネスコの事務局長に就任すると、スーダンの教育大臣と文化大臣はこう訴えてきた。

「隣国のエジプトとエチオピアには、いくつもの世界遺産がある。スーダンの遺跡も登録を目指したい。」

全面的に協力することにし、2003年にスーダン北部の「ゲベール・バルカンの遺跡群」が世界遺産に登録された。

これは、ヌビア人のナパータ王国とモエ王国の遺跡だ。
保存状態は良くないが、国内最初の登録であり、私はアル・バシール大統領からお礼を言われた。

話をスーダン史に戻すと、16世紀に入るとイスラム教徒が勢力を伸ばし、スルタンをいただくイスラム国となった。

19世紀にはオスマン・トルコ帝国の一部となっていたエジプトが侵攻してきて、スーダン北部はエジプト領となった。

エジプト軍は南部も攻略しようとしたが、抵抗にあって進まなかった。

オスマン帝国が衰えると、スーダン北部ではイギリスとエジプトが手を結び、両国が支配することになった。

その一方で、南部にはフランスが進出した。

イギリスとエジプトの連合軍はフランス軍に勝利し、南部も支配下に置いた。

1899年には、イギリスとエジプトは、スーダンの支配権を行使する合意を交わした。

第二次大戦後になると、力の衰えたイギリスは、エジプトによるスーダン併合を止めるために、スーダンに自治権を与える方向で動いた。

そして1953年2月に、イギリスとエジプトの両政府は、『3年の暫定期間をおいて自らの道を選ぶ権利』をスーダンに与えた。

スーダンは独立を選び、1955年にイギリス軍とエジプト軍はスーダンから引き上げ、56年1月1日にスーダンは独立を果たした。

独立後の最初の総選挙では、独立運動を主導したイスラム教団の流れをくむ「ウンマ党」が勝利し、アブダラ・カリル党首が首相に就いた。

しかしカリル首相は様々な問題を解決できず、58年11月にイブラヒム・アブード参謀総長が起こしたクーデターにより政権は倒された。

アブード将軍の軍事政権は、綿花の輸出を伸ばし、エジプトとの国境問題を解決し、国民の人気は高かった。

しかしイスラム化を進めたため(アフリカ系住民の多い)南部は反発し、1963年に内戦が勃発した。

アブード政権は行き詰まり、64年11月に退陣に追い込まれた。

その後、民政移管が行われ、国民統一党とウンマ党の連立内閣となった。

だが69年5月に、ヌメイリ大佐の軍事クーデターが起き、ヌメイリ軍事政権が樹立した。

ヌメイリは71年に大統領制を導入し、選挙で初の大統領となった。

73年には新憲法も制定した。

ヌメイリ政権の功績は、南部に自治権を与えることで、72年に内戦を終結させたことである。

しかし80年代に入るとイスラム勢力の圧力に屈して、88年にシャリーア(イスラム法)を全国に適用することにした。

その結果、南部の反発をまねき、再び内戦が始まった。

南部を率いたのは、ガラン大佐を指導者とする「スーダン人民解放運動(SPLM)」だ。

ヌメイリは85年4月に訪米したが、その最中に国防大臣のアル・ダハブ将軍が軍事クーデターを起こし、ヌメイリ政権は打倒された。

そして86年に選挙が行われ、ウンマ党の党首マハディが政権を獲った。

1989年6月には、バシール大佐が軍事クーデターを企てて成功した。

以来20年間、バシール政権が続いている。
93年10月には、彼は大統領に自らを任命した。

彼はトラービー(国民イスラム戦線の党首)と盟友関係だったが、次第に仲が悪くなった。

そして緊急事態を宣言し、国民議会を解散させて、議長をしているトラービーを追放した。

一方、ヌメイリは85年のクーデター後はエジプトに亡命していたが、99年に帰国した。

そして人民労働同盟という政党を率いたが、2005年にバシールの率いる国民会議党と合併した。

南北間の内戦は、2002年10月に休戦協定が結ばれた。

包括的な和平合意には時間がかかり、05年1月にようやく実現した。

(2016年10月17日に作成)


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