(『コロンビアを知るための60章』から抜粋)
1959年のキューバ革命は、中南米諸国に決定的な影響を及ぼした。
最大の影響は、各国に反政府左翼ゲリラが誕生した事である。
左翼ゲリラは、南米では軍事政権下で制圧されて消滅していった。
中米では、左派政権の誕生や和平協定の成立によって、政党へと姿を変えている。
コロンビアで現在も活動中のゲリラは、2つだけである。
この2つに、すでに政党化したM-19を加えて、解説する。
① コロンビア革命軍(FARC)
1959年のキューバ革命後は、共産主義イデオロギーがいっそう農民層に浸透していき、各地に農民共同体が生まれた。
マヌエル・マルランダが中心となって、トリマ県で結成された農民共同体が「マルケタリア独立共和国」であった。
政府は1964年に、独立共和国の殲滅に乗り出した。
マルケタリア独立共和国も襲撃され、マルランダら48名はメタ県に落ち延びて徹底抗戦を決議した。
これが、南米最大のゲリラとされる「コロンビア革命軍(FARC)」の起源である。
FARCが正式に発足したのは1966年で、82年には「人民の軍隊」を意味するEPを付け加えて、「FARCーEP」となった。
このゲリラの特色は、インテリや労働者出身がおらず、メンバーの90%が地方の農民で占められている事である。
また、女性兵士が30%を占めているのも特色である。
兵士は、1970年代初めには千人だったが、80年代終わりには4千人、絶頂期の2000年代初めには1.7万人となった。
現在は、1万人と推定されている。
活動は、テロと要人誘拐で、1990年代は収入の44%が身代金誘拐だった。
もう1つの資金源は、麻薬である。
自前で麻薬の密売・密造に乗り出し、現在は最大の収入源となっている。
1984年にFARCは、当時のベクンタール政権と停戦協定を結び、85年には「UP」という政党を結成した。
しかし、UPは90年までの5年間に、2人の大統領候補を含む3500人もの党員が暗殺されてしまった。
このため、停戦協定は破棄された。
1999年にパストラナ政権は、非武装地帯を設置して、FARCと停戦協定を結んだ。
非武装地帯は軍・警察の立ち入りを禁止にして、FARCの聖域を作った。
しかし政府は、02年2月に停戦協定を破棄した。
ウリベ政権の8年間は、ゲリラを武力鎮圧する姿勢を貫いた。
08年には、指導者のマルランダが戦死した。
FARCは弱体化してきている。
② 民族解放軍(ELN)
都市部のインテリと中間層を中心としたゲリラ組織である。
起源は、キューバ革命の影響を受けてキューバでゲリラ訓練を受けた学生たちが、1963年に結成した組織である。
64年7月に、ELNに改組されて、ゲリラ活動を開始した。
指導者の中で異色だったのは、富裕層の出身でカトリック神父のカミロ・トーレスである。
彼は社会改革を主張し、ELNに参加したが、66年に戦死した。
若い現役の神父のゲリラ参加は、社会に大きな衝撃を与え、トーレスはELNでは英雄になっている。
ELNは、石油産業を攻撃して体制に打撃を与えようとする所に、特徴がある。
コロンビアの東北部は油田地帯で、油送管がアメリカ資本の協力により、1980年代に整備された。
ELNは、この油送管を狙って破壊活動をくり返し、石油企業からお金を脅し取るのを最大の資金源(40%)にしている。
誘拐と麻薬でも収入を得ているようだ。
ELNの兵力は、1970年代は500人以下だったが、90年代初めに2000人、2000年には4500人となった。
しかし、パラミリターレスの攻撃により、現勢力は3000人に減少している。
2002年頃からは、FARCと共闘するようになり、FARCへの依存を強めている。
05年からは、キューバの仲介で、政府との和平交渉を進めている。
③ 4月19日運動(M-19)
FARCとELNが社会主義を志向するゲリラなのに対し、M-19は「反米反共の民族主義」を標榜している。
創設のきっかけは、1970年の大統領選挙だった。
この選挙では、かつての軍事独裁者ロハス・ピニージャが優勢だったが、パストラナ候補側が不正な選挙で勝利した。
これに怒った首都ボゴタのインテリ民族主義者たちが、権力奪取のために72年に創設したのである。
M-19は、1980年2月に、ドミニカ大使館の占拠事件を起こして、世界中に名を知られた。
85年11月には、麻薬マフィアからの依頼を受けて、最高裁判所の襲撃事件を起こした。
政府は軍隊を用い、38名のゲリラは全員戦死したが、最高裁長官など77人が犠牲となった。
この襲撃事件で疲弊したM-19は、政府と和平交渉を開始した。
そして89年に和平協定を結び、90年からは政党「AD・M-19」を結成して、選挙に参加している。
(2013年6月10日に作成)