(『プーチン 人間的考察』木村汎著から抜粋)
ウラジーミル・プーチン大統領は、テロリストをネズミに例えて、「殲滅してやる」と公言する。
2002年10月にモスクワ劇場が、2004年9月に北オセチアの学校が、チェチェン系の過激派によって占拠された。
この時プーチンは、武装勢力との話し合いを頭から拒否した。
そして特殊部隊を突入させて、犯人グループを殲滅した。
その代償は実に大きく、劇場事件では129名、学校占拠事件では386名の人質が死んだ。
後者では犠牲者の半数(186名)は児童だった。
プーチンは、下品な言葉を公開の席上で用いる事が多い。
「便所」「下水道」「きんたま」といった言葉を意図的に使う。
アメリカのニクソン大統領も同じタイプだった。
プーチンは、容易に部下のクビを切らない。
側近はKGB人脈やペテルブルク閥で形成されているが、外部の者を起用しないので人材の補充が活発でない。
罷免すると代わりの者を探し出すのが大変なため、よほどの事をしないかぎりクビを切らない。
他方で、己に従わない者には徹底的ないじめをする。
その実例は、ミハイル・カシヤーノフ元首相だ。
カシヤーノフは、エリツィン・ファミリーの中心人物で、エリツィンが大統領ポストをプーチンに譲った時、「カシヤーノフ首相だけは罷免しないように」と念押ししていた。
ところが2003年10月にホドルコフスキが逮捕された時に、カシヤーノフは「首相の自分に相談がなかった」と不満を表明した。
プーチンはそろそろエリツィンとの約束にこだわらなくていいと判断したのだろう、その後にカシヤーノフを解任した。
プーチンは2~3のポストを提示したが、カシヤーノフはそれを拒否した。
すると税務当局から脱税などの嫌疑でいじめられる羽目になった。
さらにテレビや新聞からは「好ましくない人物」との宣伝をされた。
今日、カシヤーノフがプーチン政権打倒を唱える急先鋒に立つのは、それ以外の選択肢が残されていないからだろう。
プーチンは、自分の作った「ゲームのルール」を守らない者を許さない。
彼は2000年に大統領になると、財閥のリーダーたち21名をクレムリンに呼びつけた。
そして、これからのゲームのルールについて口頭で伝えた。
①エリツィン政権下で行われた民営化で入手した不正利益は、咎めたり吐き出させたりしない。
②今後は財界は政治活動を厳に慎み、プーチン政権に協力しなければならない
この新ルールを守ろうとしない者は、追放されたり投獄される羽目になった。
ウラジーミル・グシンスキイは、テレビメディアなどを所有し「メディア王」と言われていたが、2000年8月の原子力潜水艦クルスク号の沈没でプーチンの不手際を痛烈に批判した。
それがプーチンの逆鱗にふれ海外追放となった。
ボリス・ベレゾフスキは、「エリツィン・ファミリーの金庫番」と呼ばれるほどに成功していたが、所有するテレビ局などでプーチン政策を批判したため、ロンドンへの亡命を余儀なくされた。
ミハイル・ホドルコフスキイは、石油大手のユーコス社を所有していた。
彼は野党に献金し、大統領選への出馬も目論んでいたため、10年も投獄されることになった。
上記の3人は、「経済人は政治に関与してはならない」というゲームのルールに侵犯した者たちだった。
プーチンは、特定のイデオロギーの信奉者ではなく、強い信念や哲学を持つタイプではない。
むしろ特定の手法に執着ないことで、サバイバル能力を増大させようとする。
彼は危機に見舞われる度に、柔軟に行動してきた。
それゆえに一部の者からは「カメレオン」と綽名されている。
プーチン政権では、縁故主義がはびこっている。
プーチンとその側近たちは、閉鎖集団を形成し、よそ者を拒絶している。
そうやって権益の維持をしているが、結果として縁故主義がはびこり、特権の世襲が発生している。
マーシャル・ゴールドマン(ハーバード大の研究員)
「身内ひいきは、ソ連時代にはごく稀だった。
今日のロシアは、ソ連よりも中国に似ている。」
プーチン政権では、中国の「太子党」(高級幹部の子弟たち)のロシア版といえる集団が出現している。
例えばプーチンの従兄弟のイーゴリ・プーチンは、2012年4月には「ロシア土地銀行」の重役会議の長に任命された。
プーチンの側近で大統領府長官をつとめるセルゲイ・イワノフの長男アレクサンドルは、28歳の時に自動車事故で68歳の女性を殺したが、無罪放免になった。
アレクサンドルはその後は100%国営の「対外経済銀行」の副頭取にもなったが、37歳の時に休暇中に溺死した。
セルゲイ・イワノフの次男セルゲイ・ジュニアも、25歳でガスプロム銀行の副頭取になっている。
その後はガスプロム傘下の保険会社「ソーカス」の社長となり、現在はロシアで4位の国営銀行「ロシア農業銀行」の監査会議長に就いている。
プーチンの側近で安全保障会議・書記をつとめるニコライ・パトルシェフの長男ドミートリイは、32歳の時にロシア農業銀行のCEOになり、現在は「外国貿易銀行」の副頭取である。
次男のアンドレイは、国営石油会社「ロスネフチ」の幹部である。
ミハイル・フラトコフSVR長官(元首相)の長男ピョートルは、対外経済銀行の副頭取である。
次男のパーベルも外務省の幹部である。
アレクサシェンコ(ロシアのエコノミスト)
「縁故主義がはびこっているかぎり、ロシア経済が国際的な競争力を持てないのは当然だ。」
プーチン政権は、国の借金を減らす努力をし、成功した。
これは空前の石油価格の上昇というラッキーな巡り合わせもあったが、借金を減らそうとする強い意図がなければ、達成しなかったろう。
ソ連の末期とソ連崩壊後は、ロシアは巨額の借金を負っていた。
IMF、世界銀行、欧米各国に対してである。
そのために欧米に対して強い主張が出来ないケースがあった。
プーチンが大統領になった2000年からの8年間は、原油の国際価格が右肩上がりに伸びた。
そのため、ロシアが長年にわたって負ってきた借金を、ほぼ完済する奇跡を成し遂げた。
さらにプーチンは、アレクセイ・クドリン財務相の意見を採用して、「安定化基金」や「国民福祉基金」から成る外貨準備金制度を始めた。
つまり、外貨収入の一定額を基金の形で積み立て蓄積した。
これが功を奏し、2008年のリーマン・ショックの時に被害を小さくできた。
プーチンは2012年4月11日に演説でこう述べている。
「2008~09年の経済危機は、安定化基金や国民福祉基金の重要性を実証した。
例えばギリシャは、ブリュッセル(欧州連合の本部)に助けを求めた。
ブリュッセルはカネを与えたが、もとより条件付きだった。
ギリシャは主権を失ってしまった。
2000年に我々が(援助を求めた時)どのような条件を付けられたか、今さら改めて語らない。
だが安定化基金なしには、我々の危険度は非常に高いのだ。」
とはいえ、ロシア経済には技術革新の遅れ、インフラの不備、汚職の横行、資金の海外逃避といった問題がある
(2017年4月7日、2021年4月5~6日に作成)