(『プーチン 人間的考察』木村汎著から抜粋)
KGBは、ソ連国家保安委員会(秘密警察)の英語の略称である。
チェーカーの後継組織のため、KGB職員は「チェキスト」と呼ばれる。
ウラジーミル・プーチンは、中学校の最終学年をむかえたある日、KGBのレニングラード支部を訪ねて「KGBで働きたい」と伝えた。
係官は「まず大学に進学し、法律か外国語を習得するように」と勧めた。
プーチン少年は、なぜKGBに就職しようとしたのだろうか。
まず思いつくのは、『父親がチェキストだったこと』だ。
プーチンの父は、KGBの前身の1つであるNKVDの一員だった。
そして第二次世界大戦中に負傷した後は予備役になり、戦後はKGBから給料を受け取っていた。
これが、プーチン一家が比較的裕福な暮らしを送っていた理由の1つだった。
プーチン家は当時ロシアでは珍しかったテレビ・電話・別荘などを所有していた。
洋の東西を問わず、息子が父と同じ職業に就こうとするケースは多い。
さらに、プーチンがKGBに就職したのは、強力なグループの一員になる目的もあったと思われる。
当時のソ連では、強い組織の1位は共産党で、2位がKGBだった。
プーチンは不良少年だったから、共産党というエリート・コースには乗れない。
であるならば、KGBが最良となる。
「まず大学を卒業するように」と係官から言われたウラジーミル・プーチン少年は、まるで人が変わったかの様に猛勉強した。
そして1970年(18歳)の時に、「40人に1人の狭き門」と言われるレニングラード国立大学(LGU)の法学部に合格した。
マーシャ・ゲッセン女史は著書『顔のない男』の中で、KGBがプーチンの合格を援助したとの説を述べている。
ロシアでは徴兵制が敷かれていて、18~27歳の間に兵役をこなす義務がある。
ところがプーチンは兵役を免除された。
彼がLGUに入学した時、最年少学生の1人だった。なぜなら、級友たちは兵役を終了した後に入学した者が多かったからである。
プーチンは在学中は国際法を専攻した。
プーチンは自伝『第一人者から』で、「大学卒業(1975年、23歳)と同時にKGBで働き始めた」と説明している。
だが元KGB要員によると、プーチンはLGU在学中の最終の2年間に「インフォーマント(情報提供者)」としてKGB勤務を始めていたという。
大学時代のプーチンは金回りが良く、自動車を所有する唯一の学生だった。
KGBはチェキストとしての適性や忠誠心をテストし、それに合格したので正式採用したと思われる。
ウラジーミル・プーチンは、33~37歳の4年半の間、東ドイツのドレスデンにあるKGB支部で働いた。
このKGB支部は、東ドイツの秘密警察「シュタージ」のドレスデン支部と隣同士だった。
プーチンが赴任した1985年当時のドレスデンは、人口は50万人で東ドイツで3番目の都市だった。
KGBは、職員の派遣先を成績や専攻語学で決めていた。
成績上位者は西側諸国、中位者は発展途上国、下位者は東側陣営の同盟国へ派遣されるのが慣わしだった。
プーチンはドイツ語の専攻だったが、西ドイツやオーストリアではなく、東ドイツに送られた。
それも首都ベルリンではなく、ドレスデンである。
つまりプーチンは、KGBのエリート街道を歩いた人ではない。
プーチンの公式伝記『第一人者から』によると、ドレスデンでは釣りを楽しみ、ビールばかり飲んで12kgも体重を増やしたという。
ドレスデン時代のプーチンについて情報を提供してくれるのは、ウソリツェフが書いた『同僚』(2004年刊行)である。
タイトルの同僚とはプーチンの事で、ウソリツェフはドレスデン勤務中はプーチンと同じKGB中佐だった。
2人は1つのオフィス(部屋)をシェアし、1本の電話線を二股に分けて使っていた。
加えて、東ドイツ政府から割り当てられた同じ宿舎に住んでいた。
ドレスデンでのプーチンの表向きの肩書きは、ソ独友好協会の副会長だった。
実際にたずさわっていたのは、①シュタージとの連絡、②東ドイツでの情報員の勧誘、③情報収集だった。
プーチンは大統領になった後も、ドレスデン時代に知り合った東ドイツのスパイたちと関係を保っている。
例えばマティアス・ヴァルニッヒは元シュタージだが、東西ドイツの統一後はロシアに逃れ、ドレスデン銀行のロシア部長へと変身を遂げた。
彼にその地位をもたらしたのは、プーチンとのコネである。
ヴァルニッヒはプーチン一家と親密で、プーチンの妻リュドミーラが自動車事故で負傷した時はドイツの病院を紹介して全費用を負担した。
リュドミーラは友人にこう語ったという。
「1980年代のドレスデンで、夫はKGB、マティアス・ヴァルニッヒはシュタージの一員として、一緒に働いた同僚だったのです。」
ドレスデン時代のプーチンは、留学中の外国人学生のうち、将来に本国で重要な役職に就きそうな者を、情報提供者にスカウトするのを担当していた。
ところが東西ドイツが統一したので、プーチンの作ったネットワークは潰滅状態になった。
プーチンは、東ドイツの市民を情報提供者にする作業では、かなり成功したようだ。
彼はリクルートの名手で、公式伝記『第一人者から』でこう自慢している。
「東ドイツで私は2度も昇進した。非常に大きな昇進で、私の上はトップの管理職である上司だけになった。」
ドレスデン時代のプーチンでは、『ライトビーム作戦』も書こう。
この作戦は、エーリッヒ・ホーネッカー国家評議会議長ら東ドイツの指導部に対して、KGBが実施していた盗聴や誘導の工作活動である。
例えばホーネッカー議長の全ての演説は、KGBがマイクに仕掛けた盗聴器でクレムリンに報告された。
プーチンは『第一人者から』で、同作戦に全く参加しなかったと主張している。
だがウソリツェフは『同僚』で、プーチンも関与したと記している。
『同僚』は、プーチンの性格も書いている。
ウソリツェフによると、プーチンは地に足をつけた楽観主義者で、個人主義で現実主義だという。
そしてプーチンの傑出した点として、己の感情を押え込めるセルフコントロール能力と、失敗から学ぶ能力を挙げる。
他方でウソリツェフは、「プーチンは要領のよい人間だった」と記し、「ロシアの最高権力者に昇ったのは偶然の産物だった」という。
さらにこう書いている。
「プーチンは他人をひきつける不思議な魅力がある。
海千山千のエリツィン大統領も、ころりと参ってしまった。」
プーチンは、『類まれな人たらしの名人』なのだ。
ドレスデン勤務は、プーチンに「ドイツびいき」と「ドイツ的な思考」をもたらした。
プーチンは大統領になった後、ドイツのシュレーダー首相やメルケル首相と良好な関係を築いたが、ドイツ語を流暢に話せることが貢献しているようだ。
プーチンは、ドイツ的な能率や実務能力を重視する性格をしている。
これは4年半のドレスデン勤務が与えたに違いない。
さらにドレスデン勤務は、西側諸国を垣間見る機会も与えた。
西ベルリンからのテレビ放送は、ドレスデンにも届いており、彼はそれを観る(調べる)事もしていたろう。
プーチンは正確に言うと、1985年8月から90年1~2月までドレスデンで勤務した。
この時期は、ゴルバチョフがソ連でペレストロイカを実施していた時にちょうど当たる。
つまりプーチンは、ペレストロイカやグラスノチの変革の嵐を(国内で)体験しなかった数少ないロシア人である。
その代わりに、ベルリンの壁が壊れて、ソ連の東欧圏を一挙に失う体験を、東ドイツで味わった。
これは、彼の思想形成に甚大な影響を与えたはずである。
プーチンは『第一人者から』でこう語っている。
「東ドイツで突然の変化が発生することを、前もって到底予想し得なかった。
群集が国家保安省の建物を急襲し、その内部を破壊した上で、私たちの勤務するビルも取り囲んだ。」
ロシアに帰国したプーチンは、今度は1991年12月にソ連自体の解体を体験した。
彼はこれを「20世紀における地政学上の大惨事」と評しているが、この体験を通して民衆による革命に恐怖し、嫌悪するようになった。
そして仕事の進め方は、慎重かつ辛抱強くなった。
ロシア政治ウォッチャーのダール・R・ハースプリング(カンサス州立大の教授は、プーチンをこう評す。
「プーチンは兎型ではなく、亀型の人間である」
プーチンは自伝において、「KGBを1991年8月20日付で辞職した」と語っている。
ところが同年8月19日にソ連では、クーデター未遂事件があり、その首謀者はなんとKGBトップのウラジーミル・クリュチコフだった。
組織のトップがクーデターを起こしている中で、辞表が受理されるだろうか。
また、プーチンの辞表は今日にいたるも見つかっていない。
そして重要な事は、プーチンはその後に1998年7月~98年8月までFSBの長官をした。
FSBは、KGBの後継組織である。
プーチンはFSB長官として初登庁したとき、幹部たちに「私は生まれ故郷の家に戻りました」と挨拶したという。
これは彼が「スリーパー(休眠工作員)」だったのを証明する台詞と見なせないだろうか。
プーチンは1999年にロシア連邦・首相になった直後、「この世の中には元チェキストと称するカテゴリーの人間は存在しない」と述べた。
これは、1度チェキストになった者は生涯チェキストに留まるという意味である。
プーチンと闘って暗殺された元FSB中佐のリトビネンコは、「プーチンは1991年にKGBへ辞表を提出した後も、スリーパーであった」と語っていた。
FSB長官に任命されるや、プーチンはスリーパーから現役チェキストに戻ったと解釈していいだろう。
ウラジーミル・プーチンは、自ら志願してKGBに就職し、16年間の勤務をした人である。
その意味で、正真正銘のチェキストだ。
彼はその体験を自慢気に語ってやまない。
それは一体、何を意味しているのか。
チェキストは、人間を「味方」と「敵」に分ける。
そして敵の反抗心を和らげて、中立者にしたりリクルートしたりする。
また大衆操作のために色々と宣伝を行う。
さらにチェキストは、愛国主義を重視する。
強いロシアを願い、大国性への信仰を捨てていない。
実際にプーチンは、ソ連の再建を目指す「ユーラシア連合」を提唱し、2014年春にはクリミアの併合を強行した。
その一方でチェキストは、現実の力関係を冷静に見極めようとする。
そして冷酷なまでに功利主義のアプローチをする。
チェキストの思考法は、アメリカのビジネス・スクールで教える経営学の戦略と酷似している。
実際にプーチンが大学在学中に書いた学位論文は、アメリカの経営学の教科書と非常に内容が似ている。
KGBを退職した者が、その後にビジネス分野で成功する例は数多く存在する。
KGBは任務と性質からいって、外部から閉ざされた秘密機関である。
そのため、チェキストたちは独特の連帯感を共有している。
元KGB少佐で国会議員もしたゲンナージイ・グドコフは、こう述べている。
「チェキストたちは、機密情報に対するアクセス権を持っている。
その事が、同一の階級に属しているという連帯感を強化させる。
チェキストたちは、自分たちの間でしか通じない言葉で会話する傾向がある。
その事でフリーメイソンの様な共同体意識を共有するようになる。」
プーチン政権では、KGB関係者が主要ポストを占めている。
この理由を訊かれたプーチンは、こう語っている。
「私はクレムリンにKGB仲間を連れてきたが、それは長年にわたって知り合いがおり、信用もしているからだ。
これは、彼らのイデオロギーと全く関係ない。
むしろ、彼らの職務上の能力ならびに個人的な関係による。」
プーチンは、KGBの先輩であるユーリイ・アンドロポフとウラジーミル・クリュチコフに格別の敬意を払っている。
アンドロポフはKGB議長から共産党書記長になった人だが、プーチンは己の理想像のように見なしている。
クリュチコフもKGB議長をした人だが、前述したが1991年8月のクーデター未遂の首謀者の1人である。
そのクリュチコフを、プーチンは2000年5月の大統領就任式に招待し、全世界を驚かせた。
プーチンは自伝の中で、「91年8月のクーデターに反発してKGBを辞めた」と語っているが、上の招待と整合性がない。
(2021年4月5日に作成)