(『プーチン 人間的考察』木村汎著から抜粋)
ウラジーミル・プーチンは、ペテルブルク生まれで、そこで育った「ペテルブルクっ子」である。
就職も、ペテルブルクのKGB支部に就職した。
(※補足だが、ソ連時代は同地はレニングラードという呼称だった)
サンクト・ペテルブルクは、ドイツ語で「聖ペテロの町」を意味する。
この都市は地理的にヨーロッパに近く、ピョートル大帝が「ヨーロッパへの窓」として開いた。
そのため住民は「モスクワよりも西欧的で近代的だ」と考えがちで、モスクワへの対抗心が強い。
ところが現実には、モスクワに敵わない。
ペテルブルクはナンバー・ツーでしなかいのだ。
例えば経済力では、プーチンが市政を担っていた1991年~96年の時期で見ると、域内総生産(GRP)はモスクワの60%にすぎず、1人あたりの所得では35%にすぎなかった。
東西ドイツが統一すると、東ドイツのドレスデンにあるKGB支局で働いていたウラジーミル・プーチンは、ロシアに帰国して、故郷のペテルブルク市役所に就職した。
KGBで長く働いてきたプーチンは、どうやって市役所にもぐり込む事ができたのか。
なぜアナトーリイ・サプチャク市長は、プーチンを部下として採用したのか。
サプチャクは元々、レニングラード市・ソビエト執行委員会の議長だった。
レニングラードは、ソ連の解体後の1991年9月から、サンクト・ペテルブルクに呼び名が戻った。
そこでサプチャクの肩書きは、ペテルブルク市長へと変わった。
91年8月にクーデター未遂事件が起こった時、ボリス・エリツィンはモスクワ市内に入り、戦車によじ登ってクーデター派の打倒を宣言し、指揮した。
この時にサプチャクはエリツィン側に与し、その後はエリツィン政権で改革派として名を轟かす事になった。
改革派のサプチャクは、KGBで長く働いた保守派と見られるプーチンの面接に踏み切り、即座に採用を決めた。
そればかりか、ほどなくプーチンを第一副市長に任命し、対外関係委員会の議長も任せて、ペテルブルク市役所のナンバー・ツーにした。
サプチャクは、レニングラード国立大学の教授から政治家に転身したが、政敵が多かった。
そこでKGBの助けを借りて、自己の安全を守ろうとしたのではないだろうか。
プーチンは大学教授時代の教え子であり、都合が良かった。
アンドルー・ジャック(フィナンシャル・タイムズの元モスクワ支局長)は、『プーチンの内幕』という著書でこう書いている。
「プーチンはKGBが慎重に人選してサプチャクが採用するように仕向けた候補者(スパイ)だった」
マーシャ・ゲッセン女史も著書にこう書いている。
「1990年2月に、KGB高官のユーリイ・ドロズドノフ少将が(プーチンの勤務している)ドレスデンに出張してきた。
彼は有能なスパイを養成した人物で、プーチンに帰国後に就く次の任務を指示するためだったと思われる。」
サプチャクは、エリツィン大統領の後継候補と見られていたから、KGBにとって要注意人物だったはずだ。
サプチャクとプーチンの結び付きはKGBが糸を引いていたという説は、少なからぬクレムリン・ウォッチャーに支持されている。
プーチン自身が公式伝記『第一人者から』で、こう認めている。
「ペテルブルク市役所で勤めている間も、私はKGBから給与をもらい続けていた。
それは、市からもらう金額よりも多かった。」
プーチンは、ペテルブルク市役所で働き始めると、すぐに「サプチャクの右腕」と称されるようになった。
サプチャクは、演説させたら天下一品だったが、元が大学教授なのでスピーチが講義調だし、コミュニケーション能力に乏しかった。
さらに日常業務に興味がなく、華やかな儀式やパーティへの出席に比重を置いていた。
プーチンは留守がちな市長に代わって、市役所内で働いた。
プーチンは1992年初めに副市長となり、94年3月からは第一副市長に昇格した。
サプチャクの下ではプーチンの他にも、ウラジーミル・ヤーコブレフとアレクセイ・クドリンが第一副市長として働いた。
ヤーコブレフは軍事産業を担当し、プーチンは民営化プロジェクトや外資の呼び込みを担当した。
プーチンの努力で、コカコーラ、ジレット、パリ国立銀行などがペテルブルク市に進出してきた。
ウラジーミル・プーチンがペテルブルク市役所に居た時に、食糧輸入をめぐる汚職事件が起き、彼の関与が疑われた。
当時はエリツィン政権下だが、エゴール・ガイダル副首相の推進した急進的な経済の自由化により、通貨ルーブルの価値が暴落してハイパー・インフレになった。
ロシア中が物不足となってしまい、窮余の策としてロシア連邦政府は地方自治体に大きな裁量権を与えた。
各地で天然資源を自由に販売し、得られた収入で海外から食糧などを購入するのを、認めたのである。
ペテルブルクでこの任務を行ったのは、プーチンだった。
プーチンの指令で、ペテルブルク市は原油や非鉄金属を外国に売り、9200万ドルの外貨を入手した。
ところがその外貨で輸入したはずの食糧が、市へ到着しなかった。
市議会はこの不正疑惑を調査する委員会を立ち上げ、やがて報告書が市議会に提出された。
その報告書は、プーチンに重大な不備もしくは不正があると結論して、彼の罷免を要求した。
プーチンはこの食糧取引で得たカネで、市内にマンションを購入していた。
だがサプチャク市長は、報告書を無視して、市議会を解散することまでしようとした。
そしてプーチンの汚職はうやむやになってしまった。
当時のロシアで現出していたのは、山賊的な略奪方式の市場経済だった。
抜け目なく立ち回り、違法すれすれで貪欲に利潤を追求する、そういう経済環境だった。
プーチンのペテルブルク市役所時代は、5年で幕を閉じた。
それはボスのサプチャク市長が、1996年6月の市長選で落選したからである。
サプチャクに取って代わった新市長は、第一副市長をしていたウラジーミル・ヤーコブレフだった。
サプチャクは民主改革派の闘将だったが、大学教授にありがちなエリート主義もしくは権威主義が感じられ、人気はさほど高くなかった。
それにしても、ヤーコブレフはなぜ上司の対立候補になったのだろうか。
次の説が有力になっている
ロシアでは当時、エリツィン大統領の心身の衰弱化が進行していた。
そこでエリツィンのファミリーは警戒心を強めたが、サプチャクはエリツィンの座を狙う危険な人物と映った。
エリツィン・ファミリーの中でも保守派の3人、アレクサンドル・コルジャコフ大統領警備局長、オレグ・ソスコベッツ第一副首相、ミハイル・バルスコフFSB長官は、「サプチャクが再選すると、次はロシア大統領に立候補しないとも限らない」と考えた。
そこでヤーコブレフに接触し、市長選に立候補させて、モスクワから選挙資金を送った。
プーチンはこの状況下で、サプチャクの選挙対策本部長をしたが、サプチャクは敗れた。
(2021年4月6日に作成)