(『プーチン 人間的考察』木村汎著から抜粋)
ウラジーミル・プーチンは、1996年にペテルブルク市役所を辞職すると、モスクワの大統領府に職を得た。
プーチンが大統領府に就職できたのは、ペテルブルク市役所で同僚だったアレクセイ・クドリンのおかげだった。
クドリンは、一足先に大統領府で管理総局長に就職していた。
クドリンはプーチンの親友で、アレクセイ・ボリシャコフに斡旋を頼み、ボリシャコフは上司のアナトリー・チュバイスを説得して、プーチンは大統領府で総務局次長の職を得た。
プーチンは抜け目なく立ち回る男だが、それにしてそこからの出世が早かった。
わずか3年半で大統領にまで上ったのだ。
これほどの奇跡は、なぜ起こったのか?
ウラジーミル・プーチンのスピード出世を可能にしたのは、次の3つだろう。
①エリツィン大統領の心身が急速に衰弱しつつあった
②エリツィン・ファミリーやオリガルヒ(新興財閥)は、エリツィンの後継者を探し始めていた
③この状況を察して見事に利用したプーチンの才覚
プーチンがモスクワの大統領府に来た時、ロシアは無秩序と混乱の最中だった。
エリツィン政権は物価の自由化や国有企業の民営化を断行し、それは「ショック療法」と綽名されたが、一部の者だけが巨万の富を手にした。
巨万の富を得た者たちは、「オリガルヒ(新興の寡占財閥)」と呼ばれた。
他方で一般国民は困窮し、老人や年金生活者が厳寒の街頭に立ち尽くす姿が日常茶飯事となっていた。
汚職が横行し、犯罪も多発して、弱肉強食の世界が現出していた。
エリツィン大統領は地方分権を促進したが、チェチェン共和国などは独立運動を活発化させた。
こうした状況下で、1996年の大統領選でボリス・エリツィンの再選は危ぶまれた。
もしロシア共産党・委員長のジュガーノフ候補が勝てば、再び共産主義体制へ戻る可能性もある。
そうなればオリガルヒは、不当に得た利益を吐き出さねばならない。
そこでエリツィンの側近には、大統領選挙を延期すべきと言う者すら現れた。
エリツィンの再選を目指して、まず「ミスター民営化」の異名をとるアナトリー・チュバイス(前第1副首相)が選挙本部長となった。
そしてエリツィンの次女であるタチヤーナ・ジヤチェンコが、チュバイスとエリツィンの連絡役となった。
エリツィン陣営は、「過去への逆行(ジュガーノフ)か、それとも改革の続行(エリツィン)かを選ぶ選挙だ」と宣伝した。
1996年6月16日の第一次投票で、エリツィンは1位となったが、得票率は35.3%に過ぎなかった。
7月3日の第二次投票では、第一次投票で3位だったアレクサンドル・レベジ退役中将をエリツィンが取り込み、辛うじてジュガーノフを破り再選を果たした。
ボリス・エリツィンは再選時に、すでに健康不安を抱えていた。
彼は再選した時に65歳で、当時のロシア人男性の平均寿命57.3歳を大きく超えていた。
さらに過度のアルコール摂取でいくつもの持病を抱え、95年には倒れて入院していた。
この入院は、大統領府は狭心症の発作と発表したが、心筋梗塞の疑いが濃厚だった。
実は96年夏の大統領選挙の最中(6月26日)に、エリツィンは心臓発作で倒れていた。
しかし厳重な報道管制が敷かれて、有権者の大多数はそれを知らずに投票した。
エリツィンは再選後の1996年11月5日に心臓のバイパス手術をしたが、97年1月8日に肺炎をこじらせて、全ての公務を延期し、治療生活に入った。
このためクレムリンにほとんど姿を現わさず、国民には生きているのかも分からなくなった。
この状況だからこそ、エリツィンの後継者探しが始まったのである。
後継者の候補になったのは、チェルノムイルジン、キリエンコ、プリマコフ、ステパーシン、プーチンだった。
最後のプーチンにたどり着くまで、1年5ヵ月の間に首相が次々と替わっていった。
すなわち、98年3月にチェルノムイルジン首相が解任されて、キリエンコに替わった。
98年9月にはプリマコフが首相となり、99年5月にはステパーシン、99年8月にプーチンへと替わった。
つまりエリツィン・ファミリーとオリガルヒは、試行錯誤を繰り返したのだ。
エリツィン・ファミリーは、「後継者はKGB関係者がベストだ」との結論に達していた。
というのは、98年9月から首相に据えたプリマコフ、ステパーシン、プーチンは、全てKGBの後継組織のトップを経験している。
プリマコフはSVR長官を務めたし、ステパーシンはFSB長官を、プーチンもFSB長官を務めていた。
元KGB中佐のセルゲイ・プロトノフは、著書『プーチン エリツィンの養子』で、「ベレゾフスキイとエリツィン・ファミリーは、プーチンこそが帝国の後継者として理想的と確信した」と記している。
なぜこう考えたかというと、次の理由が挙げられる。
もしロシア共産党が政権を獲ると、ロシアの議会に向かって戦車で砲撃したボリス・エリツィンは、投獄の可能性すら出てくる。
また、もし民主主義の志向をもつ人が大統領になれば、エリツィンはチェチェン戦争を始めて大量虐殺をした罪に問われる可能性がある。
もしKGB関係者でない者が大統領になれば、エリツィン・ファミリーやオリガルヒの不正蓄財が弾劾される可能性がある。
エリツィンとその取り巻きは、何人もの後継者を試し、最後のぎりぎりで一か八かでプーチンに決めたというのが、実態に近いと思われる。
ハンガリー生まれのユヤダ系で大富豪のジョージ・ソロスは、当時ロシアの民営化路線を支援していたが、こう語っている。
「エリツィン・ファミリーは、エリツィン退陣後に自分たちの身柄と財産を保護してくれる人物を探していた。そしてプーチンが急浮上してきたのだ。」
実際に、プーチンが大統領代行に任命された時、真っ先にした布告は「エリツィン前大統領と家族の身体と資産を保障するもの」だった。
だがプーチンは一筋縄ではいかない。
返す刀でエリツィン・ファミリーをクレムリンから追放した。
プーチンはまず、タチヤーナ・ジヤチェンコ(エリツィンの次女)を大統領のアドバイザーから罷免した。
タチヤーナはそれまで、エリツィンの私設秘書として権力をほしいままにしていた。
プーチンはさらに、エリツィン・ファミリーのパーベル・ボロジンも左遷した。
パーベル・ボロジンは、プーチンが大統領府の総務局次長に就いた時に、同部長だった上司で、プーチンの恩人だった。
しかしタチヤーナと同様に汚職の話が付きまとっていた。
プーチンは、恩人でも目的達成後に斬り捨てることが珍しくない。
エリツィン・ファミリーの中でカシヤーノフ財務相だけは、直ちにお役御免にはならなかった。
エリツィンがそれを特別に要請したからである。
カシヤーノフを首相(当時)から解任したのは、2004年2月だった。
エリツィンの後継者としてプーチンに白羽の矢を立てたのは、「コントーラ」もそうだった。
「コントーラ」とは、ロシア語で「支部」を意味し、KGBの後継組織を指す隠語である。
ロシア研究家のゲッセンやフェリシチンスキイ&プリブロフスキイは、著書で「プーチンを大統領に押し上げるようにコントーラが操った」と説いている。
つまり、プーチン少年がKGBへの就職を希望すると、レニングラードKGB支部は彼をレニングラード国立大学へ入学させた。
そして在学中の彼をインフォーマントとして用い、見習い修業させた。
卒業と同時にKGBに正式採用し、ソ連が崩壊するとペテルブルク市役所にサプチャク市長のお目付け役として送り込んだ。
サプチャクが市長選で負けると、コントーラはプーチンをモスクワへ呼び寄せ、クレムリンで見習い修業させた。
そのテストに合格したので、エリツィンの後継者にすることにした。
上記の「KGB陰謀説」は、分かり易く出来事を説明できるが、KGB以外の者たちの動きや、プーチン自身の意図を見ていない。
そもそもプーチンは有望なKGB職員ではなく、その証拠に東ドイツのドレスデンという二流の地に赴任していた。
KGB内でエリート・コースを歩んでおらず、徐々に頭角を現した人である。
私の考えでは、プーチンの出世にはKGBの推挙や助力がある程度までは作用した。
しかしそれが全てではない。
実のところウラジーミル・プーチンは、大統領になるまでナンバー2の人生だった。
彼が生まれ育ったペテルブルクは、ロシアでモスクワに次ぐナンバー2の都市である。
卒業したレニングラード国立大学も、その地位はモスクワ国立大学お及ばず、ナンバー2の大学である。
就職したKGBも、ソ連時代は共産党に次ぐナンバー2の出世コースだった。
しかも彼は、KGBでエリート・コースを歩んだわけではなく、派遣されたのは上記した通り二流の地である東ドイツのドレスデンだった。
ドレスデンでもソ連領事館の総領事ではなく、副領事の1人にすぎなかった。
ベルリンの壁が崩れて市民が領事館に押しかけた時、プーチンが「自分は通訳にすぎない」と言って責任回避を試みたのは、有名なエピソードである。
プーチンは1991年にKGBを辞職したが、それはKGBで出世を諦めたからと思われる。
その後に働き始めたペテルブルク市役所でも、第一副市長の立場であり、ナンバー2であった。
ナンバー1は、アナトーリイ・サプチャク市長だった。
プーチンに目を付けて助力した者の1人に、ボリス・ベレゾフスキイがいる。
ベレゾフスキイは、エリツィン・ファミリーの一員で、オリガルヒの一員でもあった。
そして、「プーチンを大統領にするため最も汗をかいた人」と言って差し支えない。
ベレゾフスキイは、1946年生まれのユダヤ教徒で、元々は学者兼エンジニアだったが、国営企業の民営化の流れを見るや非合法すれすれの行為で巨万の富を築いた。
彼の人生哲学は「カネ=権力」で、これはオリガルヒに共通する考え方だった。
ベレゾフスキイは、ユマシェフを通じてエリツィン大統領に近づいた。
ユマシェフはアゴニョーク誌の編集長で、エリツィンの回想録をゴースト・ライターとして執筆した人だ。
ベレゾフスキイはエリツィン・ファミリーに取り入り、やがて「ファミリーの金庫番」の異名をとるまでになった。
1996年のエリツィン再選に活躍し、論功行賞としてベレゾフスキイは大統領府で国家安全保障会議・副書記、次いで独立国家共同体(CIS)の執行書記に就いた。
エリツィンの後継者は、当初はプリマコフ首相が有力だった。
しかしプリマコフが大統領になると、エリツィン・ファミリーの特権を壊す可能性があった。
そこでベレゾフスキイは、ウラジーミル・プーチンに目を付け、大統領を目指すよう勧誘した。
プーチンは最初のうちはオファーを固辞したが、ベレゾフスキイはそれを見て謙虚な人と判断した。
これはプーチンの巧妙な計算も働いていただろう。
プーチンは大統領になると、手の平を返して、2000年11月にベレゾフスキイの財産を没収し、国外に追放した。
ベレゾフスキイはロンドンで13年近くを過ごし、2013年3月23日に自殺した。
ベレゾフスキイの回想によると、プーチンはFSB長官時代に、ベレゾフスキイの妻の誕生日会にバラの花束を持って現れた。
当時は、「エリツィン・ファミリー」と「プリマコフ首相+ルシコフ・モスクワ市長+スクートラフ検事総長のチーム」が権力闘争していた。
だからベレゾフスキイは「君はどうしてプリマコフとの関係をあえてややこしくする事をするのだ?」と訊いた。
プーチンは「そんな事はどうでもいい。私はあなたの友人。この事を示したいだけさ、とりわけ他の人々の面前で。」と応じ、ベレゾフスキイをメロメロにした。
だがプーチンは、ベレゾフスキイの妻に花束を渡す3日前に、KGB議長のクリュチコフの誕生日に花束を持って訪ねている。
さらにプリマコフ首相の誕生日にも、花束を持って訪ねている。
ここで分かるのは、プーチンの処世術である。
プーチンは、誰かに自らの運命を賭けることはせず、常に複数の人間に保険をかける。
慎重かつ計算高い人であり、武骨な忠義者だと誤解してはならない。
「プーチンの類い稀なる忠誠心が、彼の出世の秘訣」という通説は、浅薄である。
話を戻すが、ベレゾフスキイはエリツィンの後継者をプーチンにしたいと考えた時、まずユマシェフに相談した。
するとユマシェフの返事は「彼はチェキスト(KGB出身者)として位が低い」だった。
確かにプーチンは、KGBを1991年に辞職した時、中佐でしかなかった。
ユマシェフは、イーゴリ・マラシェンコの意見を聞くことにした。
マラシェンコは、民間テレビ局の第1号だった「NTV」の創設者の1人で、プーチンとも親しかった。
マラシェンコはこう答えた。
「プーチンはKGBの人間である。我々はKGBを決して信用してはならない。私はプーチンを信用できない。」
だがベレゾフスキイたちは、チェキストだからこそ自分たちを守ってくれる、と考えた。
さらにベレゾフスキイは、かつてペテルブルク市役所にいたプーチンに賄賂を渡そうとした時、それをプーチンが受け取らなかった事に強い感銘を受けていた。
ベレゾフスキイはFSB本部にプーチンを訪ねて、会見を行った。
この時のエピソードをベレゾフスキイは語っているが、プーチンは指を唇に当てて「しっ!」と沈黙するように促し、ベレゾフスキイの手を引いて長官室から出て、エレベーターの中に誘導した。
プーチンは「話をするのに、ここが一番安全なんだよ」と言った。
旧KGB本部の建物は、会話が録音される仕組みになっていた。
(※FSBはKGBの後継組織である)
だからKGBの者は、重要な案件は話さず、時にはわざわざ隣国のフィンランドまで出掛けて話した。
プーチンの元妻リュドーミラはかつて、東ドイツの友達イレーヌ・ピーチにこう話している。
「夫は、同僚と重要なことを話し合う時、きまってフィンランドへ出張するんです。ロシアではどこへ行っても盗聴される危険があるから。」
ベレゾフスキイに勧誘され、大統領選挙に出馬すると決めたプーチンは、エリツィン大統領に面会した。
このときプーチンは、「私は、閣下がお与え下さるポストが何であれ、懸命に働く所存でございます」と神妙に語った。
ベレゾフスキイは、己が支配するマスメディアを用いて、プーチンを推すキャンペーンを行った。
当時に宣伝目的で大急ぎで出版されたプーチンの自伝『第一人者から』も、実はベレゾフスキイの肝いりで作成されたものだった。
2000年3月26日にプーチンは大統領選挙に勝ち、5月7日にクレムリン入りした。
2000年8月に、原子力潜水艦「クルスク号」の沈没事件が起きた。
この時のプーチン大統領の対応を、ORT(ロシア公式テレビ)は厳しく批判した。
ORTは、ベレゾフスキイが41%の株式を持つ半官半民のテレビ局だった。
ベレゾフスキイはクレムリンに呼び出され、アレクサンドル・ヴォローシン大統領府長官から警告を受けた。
「ORTを2週間以内に手放さなければ、グシンスキイ(メディア王だったが国外追放になった人)と同じ運命になる」
ベレゾフスキイの持つ企業はすべて没収され、プーチンの側近がトップをつとめる国営企業や、プーチンに忠誠を誓うオリガルヒの手中へ移った。
抵抗するベレゾフスキイの説得に来たのは、何とロマン・アブラモビッチだった。
ロマン・アブラモビッチは、そもそもベレゾフスキイに見出されて、ビジネス・パートナーになり頭角を現した男だ。
だがプーチンに忠誠を誓うオリガルヒの代表格へと豹変したのだ。
ベレゾフスキイはこの時、プーチンを大統領に推挙した事は間違いだったと悟った。
プーチンは、己に力を貸してくれた者に恩義を感じ続ける人間ではなかった。
プーチンは大統領になると、すぐにベレゾフスキイと手を切ろうとした。
ベレゾフスキイはロンドンに亡命後、プーチン批判を繰り返した。
そして同じ亡命者のアレクサンドル・リトビネンコを支援した。
リトビネンコは元FSBの中佐で、プーチンの暗部を一般公開したが、ポロニウムを飲まされて暗殺された。
ベレゾフスキイは、かつてパートナーだったアブラモビッチとの資産分配をめぐる裁判にも敗訴し、破産状態になった。
そして2013年3月23日に自宅の浴室で首吊り自殺した。
ウラジーミル・プーチンのスピード出世には、上司への忠誠心も大きく影響した。
彼の忠誠心は何に由来しているのかを考察すると、ロシアに在る「家父長制」の人間関係が浮かぶ。
プーチンは、人間関係を垂直的な上下関係で捉える習性を持っている。
彼にとって上司だったサプチャク市長やエリツィン大統領は、「父」の如き存在なのだろう。
従って絶対的な服従をし忠誠を尽くすのは、当然かつ自然だった。
逆に言えば、プーチンは部下たちが自分に忠義を尽くすのも当然と考える。
プーチンの人間観は、裏返して言うと、人間関係を対等なものと捉えていない。
実際に彼は、重要な決定は独断で決めている。
2012年9月24日にプーチン首相は、メドベージェフ大統領との「職の交換」を発表し、ロシア国民にショックを与えた。
国民や議会に一切話すことなく、2人だけの合意で決め、それを通告したからだ。
プーチンの側近のペスコフ報道官ですら知らされず、ぺスコフは「他の者にとってと同様に驚天動地のニュースだった」と発言している。
シュヴァーロフ第一副首相もこう述べた。
「今回の決定は、側近たちにとっても寝耳に水だった。我々は事前に何も知らされていなかった。」
プーチンがFSB長官に就任した1998年7月は、エリツィン・ファミリーとプリマコフ首相陣営が権力闘争の真っ最中だった。
プーチンはエリツィン・ファミリーに加担すると決めると、プリマコフ陣営の有力者であるユーリイ・スクラートフ検事総長を失脚させようとした。
スクラートフは当時、エリツィン・ファミリーの汚職を追及しようとしていた。
1999年3月にORTは、1つの盗撮ビデオをロシア全土に放送した。
それは何と、スクラートフ検事総長が2人の裸の女性と戯れているシーンだった。
プーチンFSB長官は「ビデオを科学的に鑑定した結果、男性はスクラートフ検事総長である」と語った。
2人の女性はFSBに雇われたとの嫌疑が濃厚だった。
スクラートフはこの事件で辞職に追い込まれ、エリツィン・ファミリーは汚職追及から逃れた。
プーチンの忠誠心が発揮されたのである。
ウラジーミル・プーチンのスピード出世には、彼の「人たらし」のテクニックも影響したはずだ。
ビクトル・タラーソフは著書『ウラジーミル・プーチンの心理学的肖像画』で、こう記している。
「プーチンは、他人と親しくなる術に秀でている。
この特質は(KGBの)職業訓練の賜物だろう。
彼は影響力を持つ人間を友人とすることで、しばしば己の危機を脱してきた。」
プーチンはKGBに就職すると、モスクワのアンドロポフ赤旗諜報研究所で1年近く、スパイの訓練を受けた。
ここでの同期生の証言がある。
アンドレイ・ピーメノフ(仮名)によると、同研究所で叩き込まれたのは、「他人との間で相互関係をつくること、個人的な関係を形成して影響を及ぼすこと」だった。
プーチンのKGB仲間だったヴァレリイ・ゴルベフもこう語る。
「KGBで私たちは、デール・カーネギーの著書『人を動かす』を教科書として一緒に読んで勉強しました。」
『人を動かす』の英語タイトルは、「友を獲得し、人間に影響を与える方法」である。
プーチンの人たらしぶりを、エレーナ・トレーグボワが書いている。
彼女はコメルサント紙のクレムリン担当記者だったが、FSB長官のプーチンを1998年12月にインタビューした。
インタビュー後に夕食も共にした。
それから5年後に著書『クレムリン詮索者の物語』で、プーチンの印象をこう書いている。
「プーチンは傑出したコミュニケーション能力を持ち、私は感嘆せざるを得なかった。それは名人芸の域だった。
プーチンは会談中に私に、彼と私が同一グループに属し、同一の利益を共有している気分にさせてしまった。
論理的にはそれは全くあり得ないことで、プーチンと私は対立し合う立場にある二人である。
プーチンは天才的な『反射鏡』である、というのが私の感想である。
彼は話し相手を鏡のようにコピーする。
相手方に対してまるで自分自身であるかの様に見せかける技術を持っている。」
なおエレーナ・トレーグボワは、上記したインタビュー後の夕食で、プーチンFSB長官から口説かれた事にも、著書『クレムリン詮索者の物語』で触れている。
プーチンをインタビューした後に、トレーグボワは夕食に誘われたが、着いた先は寿司レストランで、他の者は締め出されていた。
食事中もインタビューするトレーグボワに対し、プーチンは「このような席で野暮な話は止めにしようよ。なぜ政治についてばかり話そうとするのだ。むしろ酒を飲もうじゃないか。」と言った。
さらにプーチンは、来たるべき新年の休暇を一緒にすごそうと、口説き続けた。
トレーグボワは誘いを断り、2003年の著書にこのエピソードを書いた。
すると身辺に危険を感じ始め、04年には自宅のアパートの扉付近で爆弾が炸裂した。
彼女は07年に英国へ亡命した。
(2021年5月21~23日に作成)