サプチャク元ペテルブルク市長の死の疑惑

(『プーチン 人間的考察』木村汎著から抜粋)

1996年のペテルブルク市長選挙でアナトーリイ・サプチャク市長が敗れると、第一副市長だったウラジーミル・プーチンはペテルブルグ市役所を辞職し、その後にモスクワの大統領府で職を得た。

一方、サプチャクは市長時代に行ったとされる公金横領などの汚職疑惑で、取り調べを受ける事になった。

サプチャクは、ユーリイ・スクラートフ検事総長によって逮捕状が出される寸前の97年11月7日に、心臓発作を起こして(もしくは病気のふりをして)ペテルブルクの病院に担ぎ込まれた。

この病院には、サプチャクと親しくプーチンの知人でもあるユーリイ・シェフチェンコ医師が勤務していた。

サプチャクが倒れた後のプーチンの行動は、迅速かつ果敢だった。

サプチャクを担架に乗せて運び出すと、フィンランド航空のチャーター機を雇ってパリへ脱出させたのだ。

これはサプチャクのためだけではなかった。
もしサプチャクが裁判で追及されたら、その右腕だったプーチンも連座する可能性があった。
だから自分を守る意味もあった。

この時プーチンは、大統領府の管理局長兼副長官だった。

ちなみにサプチャク脱出に協力したユーリイ・シェフチェンコは、2年後の1999年7月にロシア政府の保健相に任命された。

脱出協力の論功行賞と噂された。

シェフチェンコは、プーチンが大統領になってからも保健相を続けたが、失政を続けて2004年に罷免された。

1999年12月にプーチンが大統領代行になると、サプチャクに対する告訴はすべて取り下げられ、サプチャクは堂々とパリから帰国した。

しかしサプチャクは、2000年2月に旅先で謎の死をとげた。62歳だった。

かつての部下プーチンによってロシアの飛び地カリーニングラード(旧ドイツのケーニヒスベルク)へ派遣されたサプチャクは、心臓発作で亡くなったのである。

この死は、他殺との疑惑がくすぶっている。

サプチャクの死から7年後に、アルカージイ・ワクスベルクというユダヤ系のロシア人ジャーナリストが、『毒の実験室』という本を刊行した。

ここではサプチャクが出張先で殺されたとの説を展開している。

サプチャクの泊まったホテルの部屋で、ベッド横にある読書灯の電球に、致死量の毒物を塗布しておく。

それを知らずに電灯をつけると、加熱された電球から出る蒸気によって、近くにいる人間は死に至る。

サプチャクが就寝前に読書することは、よく知られていた。

この手口は、ソ連時代に用いられた殺人テクニックの1つだという。

著者のワクスベルクは、刊行から数ヵ月後に自宅ガレージの車が爆破して炎上するという事故に見舞われた。

サプチャクの死因を自然死と見るのは、むしろ少数派かもしれない。

プーチンですら、サプチャクの政敵だったコルジャコフやソスコベッツの仕業の可能性を示唆している。

サプチャクはプーチンの恩人だが、プーチンには自分を大統領に押し上げてくれた恩人のボリス・ベレゾフスキイを切り捨てた(国外追放した)事実がある。

サプチャクも、ベレゾフスキイと同様に、プーチンが大統領に就くと重用を期待したのではないか。

というのもパリに居たアルカージイ・ワクスベルクが、パリに逃亡中だったサプチャクにお世辞半分で「近い将来、フランス大使としての貴殿に再会するのでは」と言ったところ、サプチャクはこう答えたというのだ。

「ええ、だがもう少し上のポストでしょうね」

しかもサプチャクは、民主改革派の人で、プーチンとは政治路線が異なる。

自分と政治思想の違うかつての上司が、近くにうろうろする事は、プーチンにとって愉快でなかったろう。

ワクスベルクによれば、だからFSBの手で殺されたという。

サプチャクの葬儀はペテルブルクで行われたが、プーチンはモスクワから駆けつけ、その姿はテレビを通じて全土に放映された。

プーチンは涙を流し、それを上司への忠誠心の発露と見たエリツィン・ファミリーも少なくなかった。

サプチャクの遺族は、プーチンはサプチャクの弟子として民主改革を行うと予想していた。

ところがその期待は裏切られ、プーチンは大統領になると強権統治の体制を敷いた。

これに対して、サプチャクの娘クセニアは特に反発した。

クセニアは、ロシアのテレビやラジオの花形パーソナリティで活躍する一方、プレイボーイ誌のモデルにもなるなど、有名人である。

彼女は反プーチンの集会やデモに参加するようになったが、プーチンが2012年5月7日に大統領に返り咲くと、6月11日に彼女のアパートが「ロシア捜査委員会」の派遣した部隊に急襲された。

同委員会は、プーチンが設立した大統領に直属する機関で、委員長はアレクサンドル・バストルイキンである。

バストルイキンは、大学時代にプーチンのクラスメイトで、プーチンがペテルブルクで対外委員会・議長だった時に副議長をつとめた人だ。

プーチンは恩師の娘であっても、自分に刃向かう者は許さない。

サプチャクの未亡人であるリュドーミラ・ナルソワは、夫の死後に上院議員になった。

そして彼女はプーチン政権の支持者だった。

しかしプーチンは2012年5月に大統領に復帰するや、集会やデモへの規制を強化する法案を6月5日に提出し、すぐに上下院で可決され、8日にプーチンが署名して9日に発効した。

このスピード採決に対し、リュドーミラは議員として賛成票を投じるのを拒否した。

彼女は、「われわれ(上院議員たち)は、この法案のテキストすらまだ印刷された形では入手していない」と述べた。

すると同年10月に、彼女は上院議員のポストから解任されてしまった。

(2021年5月24日に作成)


目次【世界情勢の勉強 ロシア】 目次に戻る

目次【世界情勢の勉強】 トップページに戻る

home【サイトのトップページ】に行く