(『プーチン 人間的考察』木村汎著から抜粋)
ウラジーミル・プーチンと小・中学校で一緒だったオリガ・ボルコワは、当時のプーチンは「ソフトで控え目な、引っ込み思案な人だった」と語る。
少年時代のプーチンは、貧しい家庭の一人っ子で、身長も低く、学校の成績も優れず、劣等感に悩まされていた。
しかしボルコワは、「彼は鉄のような性格だった」とも言う。
プーチンがKGBに就職し、アンドロポフ赤旗諜報研究所でスパイの訓練を受けた時に、彼を指導したミハイル・フローロフは言う。
「プーチンは若干閉鎖的で、非社交的な人間だった」
リュドミーラは、1983年7月にウラジーミル・プーチンと結婚し、2013年6月に離婚を発表するまで、30年にわたってプーチンの妻だった人である。
彼女は、プーチンが結婚のプロポーズを行った時、「自分は無口で面白味のない人間である、それでもよいか」と念押ししたと言う。
あまりに婉曲的なプロポーズだったので、てっきり別れ話を切り出したのかとリュドミーラは誤解したくらいだった。
プーチンは、リュドミーラと交際を始めた当初、自分がチェキスト(KGB職員)である事を隠した。
付き合って1年半してから、ようやくKGBで働いていると告げた。
チェキストは家族にすら秘密主義をとる。
プーチンは、この原則に忠実な男だった。
リュドミーラはこう語る。
「妻と物事を共有してはならない、これがKGBの鉄則でした。
物事を知らなければ知らないほど、妻はよく眠るというわけです。
実際にプーチンの東ドイツ勤務が決まった時も、行く先がドレスデンなのを私に語ってくれませんでした。」
リュドミーラは2006年のインタビューで、「夫は仕事上の問題について、いっさい話そうとしません」と語っている。
プーチンがペテルブルク市役所で働いていた時代に、秘書をつとめたエンタルツェフ女史は、プーチン家の犬が車にはねられて死亡した時に、プーチンが平然としているのに驚かされた。
リュドミーラ夫人が1993年に交通事故で重傷を負った時も、プーチンは病院に駆けつけずに仕事を優先した。
こうしたエピソードから、プーチンを感情の欠如した冷血漢と見る人もいる。
実際にプーチンは、人命を軽視する行動を見せている。
1つ目の例は、2000年8月に原子力潜水艦「クルスク号」がムルマンスク港の沖で沈没した事件である。
この時プーチン大統領は、黒海沿岸の別荘で夏期休暇の真っ最中だった。
彼はただちに現場へ駆けつけようとせず、その態度をテレビ局はこぞって批判した。
もしプーチンが機敏に対応し、スウェーデンやノルウェーや英国からの援助の申し出を受けていたら、乗員112名の全員、もしくは3日間は生存していたと思われる約23名を救い出せたかもしれない。
なぜなら、水没地点はわずか水深100mだったからだ。
次の例は、モスクワ劇場人質事件の際の対応である。
2002年10月にこの事件は発生したが、プーチン大統領は犯人側との交渉を拒絶し、特殊部隊を劇場内に突入させた。
そして特殊部隊が使用したガス兵器は、犯人グループだけでなく、人質129名の生命を奪った。
3つ目の例は、2004年9月のベスラン学校人質事件である。
この時も、モスクワ劇場と同様の対処法によって、386名の人命が失われた。
リュドミーラは、2000年代初めのインタビューで、こう述べている。
「私とプーチンは異なった世界に住む人間です。
私は、何をしゃべってよいのか、いけないのかを心配するよりも、率直に話すことを気楽と考えるタイプの人間です。」
プーチンのリュドミーラに対する態度を見ると、プーチンは男女差別の意識を強く残存させている様に見える。
2000年刊行のプーチンの自伝『第一人者から』で、リュドミーラはこう述べている。
「夫は、女性をまじめに相手していない様に思えます。どこかで見下し軽蔑している扱いをします。」
リュドミーラはインタビューで、プーチンの女性観を語り、次の批判をしている。
プーチン家が東ドイツのドレスデンに住み始めた時、リュドミーラは次女を身ごもっていたが、片手に長女を抱き、もう片手には買い物を抱えて、エレベーターの無いアパートの6階へ上がっていた。
これを見かねたアパートの隣人が、夫のプーチンに忠告した。
「あなたはもっと手伝うべきですよ」
しかしプーチンの態度は変わらなかった。
リュドミーラは言う。
「夫は、家庭のすべてを女性が成さねばならないと考えていた。従って彼は家事に決して参加しなかった。」
2008年4月12日に、ロシアの大衆紙『モスコフスキー・コレスポンデント』は、「プーチン大統領はリュドミーラ夫人と離婚し、妙齢の女性と近く再婚する」と報じた。
妙齢の女性とは、当時24歳のアリーナ・カバエワで、2004年のアテネ五輪で新体操の金メダルをとり、それ以来ロシア社交界の花形になっていた人だ。
カバエワは08年に、プーチンが党首をつとめる与党「統一ロシア」に所属する下院議員になった。
なお、『モスコフスキー・コレスポンデント』は、アレクサンドル・レベジェフが資金を提供していたが、レベジェフは元はKGB職員で、実業界に転じて大富豪になった人である。
上のプーチンの不倫報道を知ると、レベジェフは同紙の編集長を解任し、資金提供も止めて休刊に追い込んだ。
この不倫報道を書いたのは、セルゲイ・トーポリ記者だったが、3年後の2011年春に自宅を出たところで何者かに襲われ、病院に担ぎ込まれたが、一命をとりとめた。
アリーナ・カバエワは、上の記事から1年後の2009年5月に子供を産み、未婚の母となった。
2012年11月に産んだ子と共に、プーチンが父親だと噂されている。
これを受けてか、2013年6月6日にプーチンとリュドミーラはテレビのインタビューを受ける形をとって、離婚の正式な発表をした。
プーチンとリュドミーラはの間にできた2人の娘は、全くと言っていいほど報道されていない。
長女マリアと次女カテリーナは、共にプーチンと同じサンクト・ペテルブルク大学に入学した。
だがセキュリティの問題からだろうが、2人共に大学へ通学せずに、自宅に教官らを招いて授業を受けた。
なお、カテリーナは日本語と日本史を専攻した。
プーチンがペテルブルク市役所で対外委員会・議長をしていた時、組織犯罪グループの脅迫を受け、2人の娘をドイツに避難させた事があった。
カテリーナは2010年に、「韓国人の男性と恋仲になり、韓国に住む予定」との噂が流れた。
長女マリアも、2013年に「プーチンがオランダを訪問中に、秘かにマリアと面会した」と報じられた。
マリアはオランダ人男性とハーグ郊外で同棲中だという。
ウラジーミル・プーチンは、スポーツ好きの男である。
たとえば冬は、スキー、スケート、アイスホッケーに熱中する。
夏は水泳や釣りをする。
彼はただスポーツをするだけではなく、己の肉体を人々に誇示しようとする。
上半身裸になって、それをメディアを通じて見せようとする。
ドミートリイ・ペスコフ大統領府報道官は、「プーチン大統領はしばしば、個人的なカメラマンを同行させています」と述べている。
プーチンが裸を見せつけるのは、複数の理由が考えられる。
まず、少年時代に身体が貧弱だったことへの劣等感があり、それを克服したい欲求が挙げられる。
次に、ロシアの人々が強い指導者を求める癖があり、その要望に応える演出と考えられる。
さらには、健康でないと見られてしまうと、かつてのボリス・エリツィンのように任期中に大統領職を失うとの恐怖心もあるだろう。
そして、プーチンの見栄っ張りの性格も作用しているに違いない。
彼は身長が低く、シルビオ・ベルルスコーニ、ニコラ・サルコジ、金正恩らと同様に、靴底に敷き革を忍ばせて背を高く見せている。
プーチンは58歳になろうとする2010年10月に、若く見せるために皺をとる整形手術を受けた。
2012年の夏にプーチンは、背中を痛めてしばらく公務を休んだ。
なかなか治らず、10月末のヴァルダイ会議にも腰の傷みで大幅に遅刻した。
公式発表では、柔道の練習中か試合中に痛めたとされている。
しかしモーター付きのハングライダーに乗り、そこで痛めたとの説もある。
12月末になると、公務に復帰した。
(2021年5月29日に作成)