(『プーチン 人間的考察』木村汎著から抜粋)
ウラジーミル・プーチンは、1952年10月7日にレニングラード(現サンクト・ペテルブルク)に生まれた。
レニングラードは、1941年9月~44年1月まで872日間にわたってナチス・ドイツ軍の封鎖下におかれた。
この期間中、市民は食糧難となり、人肉を食べる地獄絵も発生した。
当時の人口は250万人だったが、63~120万人が亡くなったという。
プーチン一家も封鎖の犠牲者だったと見て間違いないだろう。
両親や兄がこうむった苛酷な戦争体験は、プーチンに「生存志向のメンタリティ」を持たせたようだ。
プーチンの公式伝記『第一人者から』のインタビュアーとなったゲヴォルクヤン女史は、こう語っている。
「彼は何よりも自分の生存や安全を優先する」
プーチン少年が柔道を習い始めた動機は、脆弱な自分が通りでの闘いを生き残るためだった。
そして大統領になるまでは、自分のボスに絶対の忠誠をしていた。
プーチンの祖父は、ウラジーミル・レーニンの別荘に付くコックだった。
その後にヨシフ・スターリンのコックとしても働いた。
プーチンの父は、機械工として働き、共産党員でチェキストだった。
そしてレニングラードが封鎖された時は、KGBの前身である内務人民委員部の破壊工作隊に所属していた。
42年冬にドイツ軍の手榴弾で重傷を負い、残りの人生を片足びっこを引いて過ごさねばならなくなった。
母は、レニングラード包囲戦の中で餓死寸前まで行き、一度は死体と間違えられて死体置き場に並べられる経験をしたという。
2人の兄は、若死にしている。
母マリアは雑役婦で、低所得の仕事を転々としながら家計を助けた。
プーチンが初めて大統領選に出た時、『プーチン養子説』が取り沙汰された。
ユーリイ・フェリシチンスキイとウラジーミル・プリブロフスキイの共著によると、プーチンの実母はヴェーラ・ニコラエブナ(1926年生まれ)だという。
ヴェーラは大学時代に既婚者の青年と付き合って身ごもり、大卒後に別の男性と結婚した。
生誕したウラジーミルは9歳の時に養子に出された。
養父母になったのが現在のプーチンの実父母と信じられている者だという。
そしてウラジーミルは、1950年生まれなのを52年生まれに変更されて、1年生として小学校に入学した。
取材では、ペテルブルクでは「小学1年生になる以前のプーチン少年に会ったことがある」と証言する者は1人も見つからなかった。
プーチンの所属していたFSB(KGBの後継組織)は、養子説を打ち消す作業に懸命になった。
FSBは、グルジアのヴェーラ宅を急襲し、息子の写真などを押収した。
そしてヴェーラに「息子について口外するな」と警告した。
チェキスト(KGB職員)の身元を調べると、孤児や養子などの恵まれない境遇の者が多い。
彼らは愛情や温かさのない家庭で育つため、KGBに入ることでグループへの帰属意識を獲得し、「疑似家族」のような感覚になるのではないだろうか。
(2017年4月7日に作成)