(『現代中国を知るための55章』から抜粋)
日本は、第二次大戦後にアメリカに統治されて、西側世界に組み込まれた。
1951年9月に、『サンフランシスコ講和条約』が調印された。
この講和条約は、アメリカが主導したもので、西側諸国とだけ講和するものだった。
そのため日本国内では強い反対が起きたが、吉田茂内閣は調印した。
日本は国際社会に復帰する事になったが、西側世界だけへの復帰だった。
講和条約と同時に、『日米安全保障条約』も結ばれた。
そして、日本は国内基地をアメリカに提供して、中国を封じ込めるための役割を担うことになった。
中国は、サンフランシスコ講和条約に対して、「最大の被害国である中国が参加しない講和条約は、無効である」と非難した。
さらに日本は、台湾と『日華平和条約』を結んだ。
中国はこれについて、激しく抗議した。
中国は、「日本はアメリカの手先になり、軍国主義の復活を目指している」として、日本との国交を固く閉ざした。
日本と中国は断交していたので、友好運動は民間が担う事になった。
1950年10月に、「日本中国友好協会」が結成された。
52年に「第1次の日中の民間貿易協定」を締結した3人の日本の国会議員は、北京には直接は行けないため、日本→ヨーロッパ→モスクワ→北京のルートで入った。
52年12月に中国は、日本人居留民の帰国問題の協議を呼びかけた。
日本の民間団体は代表を派遣して、53年3月~58年7月にかけて、3.5万人が日本に帰国した。
58年2月に、中国から北海道の炭坑に強制連行されて、脱出して山中に13年間も隠れていた劉連仁が発見された。
岸信介内閣は、強制連行を認めず、謝罪を拒否した。
58年5月には、長崎の中国物産展で、右翼の男性が中国国旗を破損した。
日本政府は、「未承認国の国旗は、保護する必要はない」として、軽微な犯罪で処理した。
このため中国は猛抗議して、すべての文化交流を断絶した。
62年11月に、池田勇人内閣と中国は、「LT貿易覚書」を調印した。
これによって、日中貿易は拡大に転じた。
1971年7月に、アメリカのニクソン大統領は突然に訪中し、日本政府は衝撃を受けた。
日本はあわてて中国に接近したが、中国への敵視政策をとっていた佐藤内閣を中国は嫌った。
71年10月には、中国の国連復帰も決まった。
72年9月に、田中角栄・首相は訪中して、『日中共同声明』に調印した。
声明では、「台湾は合法政府ではないこと」「台湾は中国の領土であること」「中国は、日本に対する戦争賠償の請求を放棄すること」が決定した。
この時から、中国の日本に対する非難は消えて、日本は中国を「中共(中国共産党)」と呼ぶのをやめた。
中国から2頭のパンダが贈られると、日本で中国ブームが起きた。
日中の平和友好条約の調印は、中国の文化大革命での混乱や、田中内閣のロッキード事件での退陣などにより、78年8月にまでずれ込んだ。