ISI(三軍統合情報局)①
パキスタン政治に深く関わっており、影の支配者ともいわれる

(『苦悩するパキスタン』水谷章著から抜粋)

パキスタンの情報機関である『ISI(三軍統合情報局)』は、その活動状況の多くが知られていない。

以下では、ジョン・パイクの「三軍統合情報局」、ラーマンの「パキスタン三軍統合情報局」、トッドとブロッホの「グローバル・インテリジェンス」などを参考に、ISIのシルエットを浮かび上がらせたい。

ISIは、パキスタンの独立直後(1947年)に、当時のパキスタン軍の参謀次長であったイギリス軍人コウソーン少将を中心に発足した。

(パキスタンは、インドと共に1947年8月にイギリス植民地
 から脱して独立国となった。

 独立直後はまだイギリスの統制下にあった事が、ここからは
 窺える。)

ISI発足のきっかけとなったのは、47年末~48年にかけての「第1次の印パ紛争」で、内務省諜報局が十分に機能しなかった反省によるとされる。

発足の狙いは、陸・海・空の三軍の諜報機能の調整で、イランのSAVAKをモデルにし、アメリカCIAとフランスSDECEが訓練を施した。

ISIの初期の任務は対インドと対アフガニスタンだったが、1950年代後半に範囲と規模を拡大した。

アユーブ・カーン大統領が、政権の永続をはかるために、国内外の反体制派の監視も行わせるようにしたからである。

東パキスタンで独立運動の兆しが芽生えると、ISIに同地の監視も行わせた。

ISIは大統領の道具となったが、業務の重心を内政に移しすぎた結果、1965年の「第2次の印パ紛争」でインド軍の動きを察知できず、パキスタン軍の敗退に繋がったと言われている。

その後もISIは内政に深く関与し、アリ・ブットー政権下ではバロチスタン州と北西辺境州で反体制運動を監視するために、新たに「内政対策班(後に選挙対策班)」が設けられた。

この背景には、1971年にバングラデシュが(東パキスタンが)独立し、バロチスタン州でも反政府活動が活発化したため、内務省諜報局に不信を強めたアリ・ブットー大統領がISIに権限をそれまで以上に委ねた事がある。

やがてISIの活動は、カシミール住民の反インド運動への支援や、核兵器技術の獲得工作にも拡張していった。

1979年になると、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、イランではイスラム革命が起きた。

するとパキスタンは、アメリカにとっての前線基地となり、アメリカと協力するISIは、イスラム戦士(ムジャヒディン)と大いに関係を深めた。

ISIは組織を拡大し、1983~97年にかけて8.3万人のアフガン人ムジャヒディンを育成した。

ソ連がアフガンから撤退した後に起きた「アフガン内戦」でも、ISIは積極的に関与して、タリバンを育成・支援した。

同時に、カシミールの解放を目指す武装グループも支援し、1990年代末にはカシミール武装グループのほとんどがISIと関係があったとされる。

パキスタンの政治で指摘できるのは、為政者が権力維持のためにISIに依存しすぎてきた事である。

特にジア・ウル・ハック政権は、人民党(PPP)の勢力を削ぐためにグルISI長官に工作させて、反人民党を糾合して「イスラム人民同盟(IJI)」を発足させた。

ドゥラニ元ISI長官は、最高裁での証言で「ベーグ陸軍参謀長の指示により、人民党の対抗勢力であるナワズ・シャリフ率いるイスラム民主同盟(IJI)に数百万ドルの支援をした」と述べている。

ベナジール・ブットーが首相になると、彼女の政党である人民党に対してISIは監視をし、ベナジールはISIの統御に頭を悩ませた。

ベナジールが1989年5月にグルISI長官を更迭すると、反発した軍はクーデターの動きを見せ、翌年の下院総選挙に大々的な干渉をして有名になった。

IJIは、1990年の下院総選挙ではISIの資金的バックアップもあり、ナワズ・シャリフ内閣を成立させた。

ISIはキング・メーカーになり、政党やメディアの成長を阻害して、闇を深めてきた。

1996年にベナジール・ブットーの弟ムルタザが射殺された事件では、背後にISIの存在が指摘された。

その後間もなく行われた、レガーリ大統領によるベナジール・ブットー首相の解任は、発表時間の異常さ(午前3時)や、ベナジールがISIへのカウンター・バランスとして活用していた内務省諜報局と連邦捜査局のトップが拘束されたこと、両組織の執務室がISIによって閉鎖されたことから、「軍・ISIによる合憲的クーデター」と呼ばれた。

2007年12月のベナジール暗殺事件も、アルカイダ、タリバン、ISIの関与が囁かれている。

この事件では、ベナジール本人が「軍・ISIに繋がるジハーディスト(イスラム過激派)によって、私は暗殺されるかもしれない」と公言していた。

ISIがその初期において、ベナジールの父であるアリ・ブットーの下で強化された事は、歴史の皮肉である。

2008年に政権に就いた、彼女の夫のザルダリ大統領は、国連を巻き込む形での再調査に固執し、10年4月に発表された国連の報告では「ISIからの干渉があった」と言及されている。

ISI本部から1kmの場所で発生した、2007年の「ラール・マスジット(赤いモスク)立て籠もり事件」は、謎が深い。

この事件は、ムシャラフ大統領が軍・ISIに仕組ませたとも言われている。

ムシャラフはこの赤いモスクに軍を投入し、その後に連邦直轄部族地域(FATA)での軍事掃討作戦を本格化させた。

これらの事件は、パキスタン政府の背後にISIがいる二重権力構造になっている事をうかがわせる。

ISIは、本部はイスラマバード市内にあり、正規職員は1万人で、工作員などを含めれば15万人とも言われている。

正規職員は、軍人と国防省職員から成っている。

ISIの長官は、陸軍中将が代々務めていて、形式上は首相に直結しているが報告の義務はなく、むしろ陸軍司令官の影響下にある。

ISIの勤務経験者が長官になる事はない。

ISIの主な機関は8つある。

CIAやサダム・フセインとの関係で有名になった「国際商業信用銀行(BCCI)」は、1991年に経営破綻するまで、ISIの海外資金を管理していた。

ISIについての疑問は、『果たして上意下達の組織であろうか』という点である。

ISIの幹部人事は2~3年のローテーションで、限られた人物が数々の陰謀に指示を出しうるとは想像しにくい。

ISIの内部対立の存在を感じさせる最も有名な事件は、1993年1月に陸軍参謀長のナワズ大将が公邸で急死した事件であろう。

ナワズは事前に「調子が悪く、毒を盛られているかもしれない」と家族に漏らしていたため、遺族はアメリカの医療機関に遺髪の調査を依頼した。

その結果、通常の6倍以上のヒ素が検出された。

だがパキスタン政府の公式発表では、ヒ素の検出は否定された。

ナワズ大将は、2人の前任者(ジア・ウル・ハックとベーグ)のイスラム優先路線から軍を戻して、政治的に中立な集団にしようとしていたし、周辺国との関係改善に意欲を持っていたとされる。

陸軍トップの不自然な死は、陰謀の前にはトップでも無力であるのを示した。

(2014年10月22日に作成)


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