タイトルアフガニスタンの近現代史の要約

(以下は『世界の紛争 イスラム・アメリカ対立の構図』から抜粋)

アフガニスタンは古くから「文明の十字路」と呼ばれ、東西交通の要地であった。

1826年に、ドースト・ムハンマドが『バラクザイ王朝』を樹立し、アフガン王国の基礎を築いた。

1838年以降に2度に渡って、インドを支配していたイギリスと戦争した。
その結果、イギリスの保護国(半植民地)になった。

1919年に、3回目となるイギリスとの戦争をし、イギリスに勝って独立を回復した。

独立後は、半世紀にわたり王制を続けた。

1973年7月に、王族のムハンマド・ダウド元首相が無血クーデターを起こし、王制を廃して共和制に移行した。

1978年4月に、親ソ派による軍事クーデターが起き、ダウド大統領は殺されて、タラキを議長とする革命評議会が権力を握った。

タラキ議長はソ連寄りの社会主義政策を進めたが、国民の反発により、79年に辞任に追い込まれた。
代わってアミン副首相が議長に就任した。

1979年12月に、ソ連は「友好条約」を盾にして、アフガンに軍事侵攻した。
ソ連はアフガンを衛星国(属国)と視ていて、親ソ政権を維持するために侵攻したのである。

アミン議長は殺され、ソ連は亡命していたバブラク・カルマルを呼び戻して、議長兼首相に任命した。

このソ連の軍事侵攻は、国際的な非難を浴び、アフガンではソ連に対抗するゲリラ活動が展開された。

西側諸国は一斉にソ連を非難し、アフガンの反体制派を支援してソ連と戦わせることにした。

反体制派を直接的に支援したのは、隣国のパキスタンだった。
アメリカはパキスタン政府にカネや武器を援助し、パキスタン経由でアフガン・ゲリラを支援した。

アフガンに入って反体制派と共にソ連軍と戦った「アラブ義勇軍」(イスラム教徒の義勇兵たち)は、 「ムジャヒディン」(イスラム戦士)と呼ばれた。

このムジャヒディンの中に、若き日のオサマ・ビンラディンもおり、ビンラディンは豊富な資金を背景に兵士を募り、アフガンへと送り込んだ。

アメリカ政府のCIAは、ビンラディンに資金援助を行った。

ソ連軍は結局、1988~89年にアフガンから撤退した。

アメリカ政府は「自由主義が共産主義に勝った」と思ったが、ビンラディンらイスラム戦士は「イスラムの勝利だ」と捉えた。

ソ連軍の撤退後は、ゲリラをしていた7組織による暫定政権が発足した。
だが各派の対立により内戦となった。

内戦の混乱を終息させたのは、タリバンだった。

タリバンは1994年に結成され、わずか2年後の96年に首都カブールを制圧した。

(以下は『誰にでもわかる中東』小山茂樹著から抜粋)

イギリスはアフガンを手中に収めんとして、1838~42年と1878~80年の二度に渡って アフガンに侵攻した。
これを第一次アフガン戦争、第二次アフガン戦争という。

第一次アフガン戦争では、イギリス軍はカブールを占領したが、逆襲にあり数名を除いて全滅した。

第二次アフガン戦争でもイギリス軍は敗退し、イギリス正規軍がアジアで敗退する史上初の事態となった。

(2013年4月3日に作成)


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