キリスト教マロン派とは

(『シリア・レバノンを知るための64章』から抜粋)

キリスト教マロン派の起源は、5世紀はじめにシリアで活躍したとされる、隠修士マールーンにしばしば求められる。

だが、より確実には7世紀後半に初代のアンティオキア総大司教になった、ユーハンナー・マールーン(フランス語ではジャン・マロン)にある。

しかし、すでにギリシア正教やアンティオキア総主教座があった中で、マロン派がどれだけの影響力を持ったのかは定かではない。

マロン派については、「単性論を採用した」とかつて言われていたが、1970年代以降にマロン派自身が強く否定している。

当初からカルケドン信条を受容し、典礼はシリア語で行っていたという。

マロン派の人々は、ビザンツ帝国やイスラーム王朝の攻撃を受けて、レバノン山地北部のカディーシャ渓谷に逃れた。

ここは大渓谷で、レバノン杉の産地である。

11世紀末に第1回の十字軍がやってくると、マロン派はこれに合流し、エルサレム攻囲戦などに参加した。

十字軍にしてみれば、心強い現地協力者だった。

1213年(第4回十字軍の後)に、マロン派の総大司教はローマへ出向き、教皇への服属を表明した。

この時期にローマ教皇庁から送られた書簡は、マロン派の文書館に今も収められている。

13世紀末にイスラム教のマムルーク朝が十字軍を駆逐すると、マロン派は苦しい立場となり、度重なる迫害をうけるようになった。

オスマン朝になると迫害は減り、ローマとの交流が活発になった。

ローマから伝道団が派遣され、典礼のラテン化が進められた。

ローマ・カトリック化の仕上げが、1736年のルウェイザ会議であった。

この時に、マロン派のローマへの完全なる従属が確定し、明文化された。

1856年のブキルキー会議で、カトリック化は最終確定した。

18~19世紀になると、マロン派に大きな変化が起きた。

1つは、カディーシャ渓谷から外に出ていく者が増えた事である。

移住者たちは、現在のレバノン領のほぼ全域に拡散していった。

もう1つは、マロン派の農民が力を蓄えた事である。

農民たちは領主層と対決した。

矛先がドルーズ派の領主にも向けられた時、宗派紛争になった。

1860年にマロン派とドルーズ派は大衝突し、万単位の人命が失われた。

そして、紛争にヨーロッパ諸国が介入してきて、マロン派を最有力とする体制が出現した。

第一次世界大戦後には、フランスがシリアとレバノンを支配するようになった。

フランスは、同じカトリックであるマロン派を優遇した。

それが、今日のレバノンの政治制度(大統領をマロン派から選ぶなど)に繋がっている。

レバノンが独立国家になる際は、アラブの国として生きていくか(アラブ主義)、特殊な国として生きていくか(レバノン主義)で、大論争になった。

マロン派の多くは、後者を支持した。

この時に彼らの主張の根拠になったのが、「レバノン人の起源はフェニキア人にある」という考え方である。

このフェニキア主義は、19世紀後半に現れ、フランス政府やイエスズ会が学校教育を通じて広めていた。

「レバノン人は地中海で活動する海洋民族だったのであり、今後も西を向いて生きてゆくべきだ」というわけだ。

マロン派にとって、これは都合の良いイデオロギーだった。

結びついている場所はローマなどのカトリック世界だからである。

マロン派の故郷は山奥のカディーシャ渓谷であり、海岸部ではないのだが、フェニキア人が船の建材にレバノン杉を使っていたので、それを拠り所にした。

「レバノン人は、フェニキア人を祖先とし、美しいレバノン杉のある山地が故郷である」というステレオタイプの宣伝は、西ヨーロッパやマロン派の思想に基づいている。

レバノン人口の中で、マロン派の割合は年々低下している。

ムスリムに対して出生率が低いことが、主な理由である。

しかし、レバノンの各分野で活躍する人を眺めると、マロン派の比率は依然として高い。
これは過去150年ほど有利な地位に置かれてきたからだろう。

(2014年8月11日に作成)


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