タイの政治とクーデター(以下は『毎日新聞 2011年8月24日』から抜粋)
タクシン氏は2006年9月に軍のクーデターによって失脚し、汚職事件で実刑判決を受けて、亡命生活を送っている。
実妹のインラックが政権を発足させたのを受けて、タクシンの帰国・帰権が取り沙汰されている。
インラックは、タクシンの操り人形とも揶揄されている。
(以下は『毎日新聞 2012年11月25日』から抜粋)
タイの首都バンコクで、インラック政権に退陣を求めるデモがあり、一部の参加者と警官隊が衝突して、デモ隊の約130人が逮捕された。
デモの主催者は「ピタク・サイアム」と名乗る、退役軍人らのグループである。
反タクシン派は、「インラック政権は王室を頂点とするタイ社会への挑戦者だ」と反発している。
(以下は『毎日新聞 2014年6月23日』から抜粋)
タイでクーデターが起き、軍部が全権を掌握してから、1ヵ月が経った。
軍政に対して経済界は好意的で、株価指数も回復基調だ。
しかしタクシン派の農民や貧困層は、王室につらなる特権階級に不信を抱いている。
選挙の民意を否定したこのクーデターは、国の亀裂を深めた。
イベント会場で来場者に取材をしていると、軍兵士に「政治的な質問はするな」と注意された。
軍はタクシン派への締め付けを強めていて、進行中の行財政改革もタクシン派をつぶす意図が透ける。
今回のクーデターを理解するには、2001年に発足したタクシン政権の政策を知る必要がある。
タクシン首相は、捨てられてきた北部や東北部などの人々を重視し、30バーツ(100円)で医療を受けられる制度や、一村一品の地域振興策をとった。
タクシンの政治手法は社会構造に変化をもたらしたが、特権階級である王室、軍幹部、高級官僚、財界は不満を高めた。
特権階級の者たちは、2006年にもクーデターを起こしている。
選挙で勝つタクシン派に対し、反タクシンの特権階級は市民運動の名を借りてデモを行い、憲法裁判所を握ってタクシン派の首相を失職させてきた。
反タクシン派は、富の再配分を拒み、「王制の護持」を旗印にして、非民主的な手段を尽くしてきた。
(以下は『毎日新聞 2014年6月24日』から抜粋)
タイの『バンコク・ポスト』は、反政府デモを率いたステープ元首相が、プラユット陸軍司令官と2010年からタクシン排除を目指す会談をしていたと報じた。
ステープは支持者との夕食会で、「タクシン派のデモが起きた2010年以降、プラユットとタクシン打倒で連絡を取り合ってきた」と打ち明けた。
さらに「2014年5月20日の戒厳令の発令前に、プラユットから『あなた方(反政府デモ)は疲れている。軍が引き継ぐ時が来た』と言われた」とも明かした。
軍は5月22日にクーデターを宣言して、タクシン派の政権を倒した。
今回のクーデターが、反タクシン派と軍部の共謀と分かる証言だ。
(以下は『毎日新聞 2015年12月1日』から抜粋)
タイの軍事政権は、政権に批判的な政治家や学者を拘束したり尋問している。
タイでは長く、王室と、王室に連なる軍や官僚や財界による専制政治が続いていた。
その体制を崩したのが、2001年に首相になったタクシン氏だった。
タクシンは農民の支持を得て、既得権益を切り崩した。
タクシンの政策は、ばらまきと言われたが、農民や貧困層の暮らしを確かに向上させた。
それが国王ら保守派からは社会の破壊者と映った。
(以下は『東京新聞 2016年8月8日』から抜粋)
タイで民政移管に向けた新憲法草案の是非を問う国民投票が、8月7日に行われた。
賛成票が61.4%で、草案は承認された。反対は38.6%。
この草案は軍の強い政治関与を認めており、新憲法の施行から5年間を民政移行期間とし、軍政が上院議員を任命する。
下院は選挙が行われるが、制限が設けられている。
今回の国民投票は、軍政が混乱防止を名目に反対運動を禁じ、厳しく取り締まった。
タクシン派の人々が100人以上も逮捕されるなど、言論統制下で行われたものだ。
だから投票率は55%だった。
タイでは1932年に立憲君主制になって以来、今回で20回目の憲法制定である。
今回の憲法草案は、「タクシン派つぶし」とも指摘されており、政党の弱体化を図りつつ、軍の政治関与を強めるものだ。
(2025年1月5日に作成、11月25日に加筆)