タイトル野球の大投手たち

(以下は『Number 2005年4月7日号』小関順二の文章から抜粋)

🔵金田正一(かねだまさいち)

金田正一は、通算400勝(298敗)の大記録を立てたが、14年連続で20勝以上の記録も持っている。

20勝以上の14年間は、常に300イニング以上投げており、1955年度はシーズン400イニングも達成した。

ちなみに2000年になると、この年にセパ両リーグで200イニングに到達したピッチャーはゼロだった。
2004年の最多イニングも、井川慶の200イニングと3分の1である。

通算4490奪三振も、不滅の記録である。

金田の持つ球種は少なく、ストレートと、2種類のカーブ(縦のカーブと横のカーブ)がほとんどだった。

まれに超スローボールも投げていた。
球速50kmくらいのボールである。

金田と国鉄スワローズでバッテリーを組んだのが、根来広光(ねごろひろみつ)である。

根来は、金田の超スローボールの思い出をこう話す。

「超スローボールは、パフォーマンスで投げた球。
王とか長嶋に投げれば、お客さんも喜ぶでしょ。

速球と同じ腕の振りにしながら、カーブのリリースと同じようにボールを抜いていく。

山なりの軌道で、なかなかボールが来ないから、バッターは前足をせわしなくバタバタ動かしてたね。」

金田本人は、超スローボールをこう解説する。

「手品だね。そのくらい緩い球は難しい。
完璧なフォームでないと投げられない。

もったいないから、長嶋や王にしか投げなかった。
彼らも手が出ないほど、待っても待っても来ない球だから面白い。

あの球は、高校時代から投球技術を向上させるトレーニングで投げていた。

超スローボールは、それができたらどんな球も投げられるという位に難しい。
きちんとしたフォームを作るために取り入れた。」

漫画『ドカベン』を書いた水島新司は、この作品で坂田三吉という投手に「通天閣投法」と名付けた超スローボールを投げさせている。

水島はこう話す。

「もちろん金田正一を意識したボールです。

真上から落ちてくるボールなので、ストライクかボールかの判定が難しい。
描く前にプロの審判にストライクゾーンをどう判断するか聞いたほどです。」

金田が苦手にしていたバッターの吉田義男は、こう話す。

「僕に対しては、ものすごく球種が少なかった。ほとんどが高めのストレート。

ヒットにすると、マウンドから『おいチビ、もう1回打ってみい」と言ってくる。
それで次の打席も同じ球が来る。」

金田は184cmで、当時ではかなりの長身だった。
その速球は、どの位のスピードだったのか。

根来広光が証言する。

「私が組んだ投手で、ストレートの速さは金田さんが一番でした。
150kmは超えていましたね。」

吉田義男もこう話す。

「豪速球と言われた東映の尾崎とも日本シリーズで対戦しましたが、金田さんのストレートはホップするし、一番速かったと思います。」

金田が150km超のストレートを投げていたなら、50kmの超スローボールとの緩急差は100kmにもなる。

さらに金田は、ボールをノー・サインで投げていた。

ボールを受けていた根来は、ノー・サインについて次のように解説した。

「私は1957年に国鉄に入団しましたが、57~58年は金田さんがサインを出してました。

59年は私がサインを出すようになりましたが、金田さんはしばしばサインと違うボールを投げてきました。

それで60年以降は、基本的にノー・サインです。

僅差のゲームでは、パスボールが怖いのでサイン交換してました。

ピッチャーは投げる直前に、『真っすぐはアカン』とか、危険を察知することがあります。

ピッチャーが、カーブのサインをもらってカーブを投げる、真っすぐのサインだから真っすぐという風だから、打たれるんです。

私はコーチになってから、ピッチャーに『自分の意思で投げろ』とよく言いました。

そういう意味では、ノー・サインは理に適っている。

でも金田さんは、『今日は調子が悪いから、お前がサインを出してくれ』と言う時もありました。」

金田がノー・サインで投げ始めた1960年は、彼が苦しんでいた時期だった。

前年の1959年は、21勝19敗で防御率は2.54。
60年は20勝22敗と負け越し、防御率は2.58。

防御率が1点台の頃に比べると低調だった。

この時期に金田は、新たな球種としてシュートにも挑戦したが、打たれてしまい2回だけ使って断念している。

金田は自分の投球について、こう話す。

「キャッチャーからボールを受けた瞬間に、もう投げる体勢に入っている。
リズムで投げているからね。

ノー・サインに対して、内野手は『守りづらいからサインで投げるコースを決めてくれ』と言ってたが、どっちにも動ける体勢を作っとけ、と思っていた。

内野手でも吉田義男や長嶋茂雄は、ヤマを張らないで、自分の勘でどちらへも動いていた。」

野球はチームプレーを要求されるが、金田は自分のリズムで我儘に投げ続けた。

そんな事から、彼は「ワンマン」、「天皇」と呼ばれた。

金田とチームメイトで、本塁打王にもなった佐藤孝夫は言う。

「僕はプロ1年目はショートを守ってましたが、正面のゴロに弱かった。

ある試合でゴロをトンネルしたら、金田はマウンドから睨んできた。

あの睨みでノイローゼになり、ゴロが捕れなくなる者もいました。」

だが国鉄スワローズは弱小チームなので、1点もやれないと金田が考えたのは理解できる。

なにしろ金田が14年連続で20勝以上しても、国鉄がAクラスになったのは1961年の3位だけだったのだ。

金田は1965年に、巨人に移籍した。

移籍後は5年で47勝と失速したが、監督の川上哲治は違う面から見て、次のように金田を高評価していた。

「金田は皆の手本になる。これが一番大きかった。

金田を見れば、巨人の猛練習もまだまだと分かる。」

金田の走り込みを中心とする徹底した練習は、国鉄時代も同じだったが、国鉄では模範にされなかった。
そこが強いチームと弱いチームの差である。

事実、金田が巨人に入団した1965年から、巨人は9連覇をスタートさせている。

金田は猛練習だけでなく、自己節制でも傑出していた。

根来が証言する。

「金田さんは、キャンプに自分の枕や毛布を持ってきて、バッグがものすごく大きかった。

また当時は、特急に乗っても大阪まで6時間半もかかったが、彼は夏でもカーディガンをはおっていた。

夏に半袖でいると、『長袖を着ろ!』と怒られました。

僕が新婚の時、妻に金田さんは『食費はいくら使ってる?』と尋ねてきた。

遠征で僕がラーメンを食べたら、『ラーメンなんかで野球ができるか!』と怒られたこともあります。」

金田本人はこう話す。

「私は冷めた料理は食べない主義で、旅館のメシもほとんど食べなかった。

遠征の時は、なじみの店に『こういうものを作ってくれ』とお願いしていた。

キャンプの時は、一軒家を借りて、全部自分で作っていた。

煙草、酒、夜ふかし、クソを出さない、こんな事では一流の成績は続けられない。」

村田兆治は、金田を師匠にして猛練習と自己節制し、大投手になった。

金田とチームメイトだった佐藤孝夫は言う。

「金田は試合中、マウンド上で左手首をブルブルさせてたでしょ。

あれを、ベンチに下がってもやってたんです。
座って左手を上げ、トレーナーが指先を持ってブルブルさせる。」

金田が解説する。

「ピッチャーは、投げれば必ず指がむくむ。
だから指を振って、血を逆流させて戻すわけ。」

(以下は『Number 692号』から抜粋)

🔵稲尾和久

東尾修(元投手)は言う。

「松坂大輔のスライダーが良いと皆が言うけれど、稲尾さんのと比べるのは失礼だよ。

稲尾さんは曲がりが鋭く、コントロールも良かった。

和田博実さん(捕手)の構えている所に、寸分の狂いもなく来てたんだから。」

稲尾和久はスライダーを駆使して、日本シリーズを3連覇し、1シーズンに42勝の大記録も作っている。

通算276勝。防御率は1.98。実働14年だった。

稲尾は「豪腕」「鉄腕」と呼ばれたが、剛速球で三振をとるタイプではなかった。

バッテリーを組んだ和田博実は、こう語っている。

「ストライクゾーンにボール半個分の出し入れをするとよく言うが、サイちゃん(稲尾)はボール3分の1の出し入れをして、審判すら魅了した。」

稲尾は「野球は教わるものではない、盗むものだ」が信条だった。

しかし、こんなエピソードもある。

1987年にトイレで、ばったりと山田久志・投手と会った。

山田が「スライダーの投げ方を教えて下さい」と頭を下げると、稲尾は用をたすのも忘れて、20分もトイレでスライダーの握りを教えた。

落合博満がロッテの選手だった時、稲尾が監督をした。

稲尾、落合、佐藤道郎コーチの3人で飲み、朝まで野球談義になることもしばしばだった。

落合は中日に移籍した時、「稲尾さんだけは、心から胴上げをしたい監督だった」と漏らしていた。

(以下は『引退そのドラマ』近藤唯之著から抜粋)

🔵江夏豊

江夏豊は、終身防御率は2.49で、206勝、193セーブ、2987奪三振の大投手である。

彼がプロ野球選手になった昭和42年は、まだスピード・ガンは無かったが、直球なら150キロは間違いなく出ていた。

江夏には不思議な能力があった。
彼はこう語る。

「自分でも不思議ですが、たとえば長島茂雄さんが右打席に立ったとき、外角のタテの線がはっきり見えるんです。

外角のタテ線が、キラキラと空気が光ってはっきり見えます。

しかし左打者が立つと、この外角線(左打者では内角線に相当)は消えてよく見えない。

だから私は左投手でいながら、左打者は好きでなかった。」

大洋に、土井淳という名人の捕手がいた。

私は彼に、「一塁走者がスタートを切り、あなたが二塁に送球する時、なにを基準にして投げますか」と質問した。

すると土井はこう答えた。

「二塁ベースの上30cmぐらいに、小さいミカン箱くらいの空気がキラキラ光って見える。それを標的にして送球するんです。」

プロ野球史上、江夏ほど右打者の外角線を巧みに利用した左腕投手はいない。

江夏がぽつんと「俺はキラキラ光る外角線が見えなくなったら引退するよ」と言ったのを、私ははっきりと覚えている。

昭和59年6月27日に、江夏は抑えで9回途中から登板した。

だがいつもなら光る外角線がほとんど見えず、安打を打たれて逆転負けした。

これが江夏の現役最後から2番目の試合になった。

江島はその後、渡米してキャンプとオープン戦に参加し、大リーグのブルワーズのテストを受けた。

もう外角線のキラキラは見えなかったと思うが、テストに落ちた時こう言った。

「良い夢を見させてもらいました。」

(以下は『週刊文春2024年5月16日号』から抜粋)

日米の通算で200勝まであと3勝の田中将大だが、所属する楽天で1軍に入れていない。

彼は、2021年に年棒9億円で楽天に復帰したが、そこから3年でわずか20勝しかしていない。

昨年オフに発覚した安樂智大のパワハラ事件では、現場に田中将大もいたと報じられた。

田中の今季の年棒は2.6億円といわれており、球団側は「早く200勝して引退してほしいと願っている」と、球団OBは言う。

(2024年5月10~11日に作成
2024年11月23日、2025年1月1日に加筆)


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