タイトルマジック・ジョンソンの回想⑤
ライバルのセルティックス

(『MY LIFE』アービン“マジック”ジョンソン ウィリアム・ノヴァク共著から抜粋)

1980年代の私にとって、ボストン・セルティックスとの試合は、最高のプレイができるハイライトになっていた。

中でも1980年代半ばにあった、3回のNBAファイナルにおける対戦は、見ごたえがあった。
当時のセルティックスには、ラリー・バード、ロバート・パリッシュ、ケヴィン・マクヘイルがいて、バスケ史上最強のフロントラインだった。

カリーム・アブドゥル・ジャバーとロバート・パリッシュのマッチアップは特に見物で、カリームはたいていのセンター・プレイヤーを寄せつけなかったが、パリッシュには手こずっていた。

パリッシュは足が速くて、トランジション・プレーが得意だった。
彼は派手なプレイはしないが、最強センターの1人だ。

ケヴィン・マクヘイルは、バスケ史上でも屈指のポストマンだと思う。

私の見た限りでは、マクヘイルを止めることができたのはマイカル・トンプソンだけだ。

マクヘイルというと、がっしりした肩と長い手を思い浮かべるが、彼の真骨頂はフットワークだ。

フットワークでは、彼とジェームズ・ウォージーがリーグ1だった。

マクヘイルはシュートも上手かった。

マクヘイルは大男なのに、外向的でユーモアがあった。

普通は大男は内向的だ。カリーム、パリッシュ、ユーイング、皆そうだ。
背が高くて目立つのを意識するあまり、内にこもりがちになる。

私とマッチアップしたデニス・ジョンソンも手ごわかった。
彼は大柄で、力があり、動きが早い。この3つを兼ね備える選手はあまりいない。

ダニー・エインジは、やんちゃな子供みたいで、すぐに審判に抗議していた。

セルティックスの本拠地であるボストン・ガーデンは、古くて汚ないが、バスケのコートとしては最高だった。
照明の具合が完璧で、バックボードの向こうが暗くて見やすく、シュートしやすい。

それにボストンとニューヨークのファンはバスケに詳しく、良いプレーをすれば敵チームでも正当に評価する。

カリームは「ボストンでプレーするのは、ミラノでオペラを歌うようなもの」と言っていた。

レイカーズとセルティックスが初めてNBAファイナルで対戦したのは、私がプロ入りして5年目の1983-84シーズンだった。

この時は第4戦は延長戦に入ったが、カート・ランビスがケヴァン・マクヘイルにタックルされて床に倒れた。

こんな荒っぽいファルウルは見たことがないほどで、ベンチから選手が出てきて乱闘になる一歩前までいった。

このファウルのあと、レイカーズは調子が狂ってしまった。
シュートをする時に腰が引けるなど弱気になった。そして敗北した。

続く第5戦はボストンで行われたが、ひどい熱波だった。

だがボストン・ガーデンにはエアコンがなく、気温は36度を超え、観客はTシャツに短パンだった。

カリームは暑さに弱い人で、ベンチで酸素マスクの世話になっていた。
この試合もレイガーズは負けた。

ボストンでは、レイカーズがホテルに泊まっていると、セルティックスのファンがわれわれの部屋のドアをノックしたり、 火災警報を鳴らしたりして、眠れたものではなかった。

結局、第7戦まで行ったがレイカーズが負けた。

第7戦の終了後、ボストン・ガーデンから私たちがバスで帰ろうとした時、セルティックス・ファンが数百人でバスを囲み、石やビンを投げてきて、バスを揺さぶり始めた。

警察が来てバスを脱出させたが、セルティックスが優勝したのになぜファンがあんなことをしたのか今でも分からない。

私は、優勝できなかったのは自分のせいだと思い、ロサンゼルスに帰ってからも3日間は一歩も外に出られなかった。

マスコミは何週間もレイカーズの敗因を探り、私のプレーがまずかったと書いた。

夏の間じゅう私は落ち込んでいた。レイカーズが獲れるはずの優勝を逃したのは、あのシーズンだけである。

この敗戦で私は、相手が何を仕掛けてこようと、うろたえずに自分のプレーを続けなければいけないことを学んだ。

翌1984-85シーズンも、NBAファイナルはレイカーズ対セルティックスだった。

初戦はボストンで行われたが、セルティックスが絶好調で148点も取り、レイカーズは34点差で負けた。

だがボストンで行われた第6戦で、レイカーズが優勝を決めた。

意外にも、前年にあれほど敵意をむき出しにした観客は、レイカーズに拍手を送った。
それまでの態度を反省する意味もあったかもしれない。

のちにカリームは、「1985年にセルティックスに勝って優勝した時が、プロ生活のハイライトだ」と語った。

1986-87シーズンも、レイカーズとセルティックスがNBAファイナルで戦った。

第4戦で私は、生涯最高のシュートを決めた。
試合終了ギリギリでフックショットを決め、レイカーズが逆転勝ちしたのだ。

このシーズンのレイカーズは無敵の強さで、第6戦で優勝を決めた。

私がNBAで対戦した選手の中で、最も偉大な選手がセルティックスのラリー・バードだ。

マイケル・ジョーダンよりも怖い選手だった。

私は長い間、ラリー・バードと比較され続けた。私たちは良きライバルだった。

ラリーは、NBAでは運動能力が足りないほうだ。それでもトップに上りつめた。

彼を見ると基本の大切さが分かる。パッシング、リバウンド、ドリブル、シュートの基本動作を全てものにしている。彼は練習の虫だった。

私と同じで、ラリーもゲームの流れを読むタイプで、ポイントガードの本能を持っている。
セルティックスのプレーのほとんどは、彼が取り仕切っていた。

私の知るかぎり、シュートを打たずに試合展開をコントロールできるのはラリーだけだった。

レイカーズのマイケル・クーパーは、いつもラリーをぴったりマークしていた。
ラリーを止めるため、クーパーは何時間もビデオを見て動きを研究していた。

ラリーはシーズンオフの自主トレでは、 クーパーがカードしているのを想定すると聞いている。

黒人のバスケファンは当初、ラリーを大したことない奴と無視していた。
マスコミがでっち上げた、白人を喜ばせるための白人スターと思っていたからだ。

だがそのうち黒人ファンも考えを改め、尊敬し始めた。

コートにいる時のラリーには独特のオーラがあって、近寄りがたい感じがした。

私はラリーのプレーを見て、「彼は子供の頃から黒人とプレーしていたに違いない」と 思った。
実際に彼は中学生の頃、近くのホテルの黒人従業員とバスケをしていた。

1986-87シーズンのプレーオフで、ピストンズがセルティックに敗れた時、ピストンズのデニス・ロッドマンとアイザイア・トーマスは悔しさから「ラリー・バードが3回もNBAのMVPになったのは、白人だからだ」と述べた。

ラリーはこれに対し、「アイザイアの言葉はハートが言わせた言葉じゃない。口からこぼれただけだ」と冷静に対応した。

1992年オリンピックのアメリカ代表に私が選出される時、ラリーは自分は年寄りだからと出場を迷っていた。
私たちが説得を続けた結果、彼も出場を決めた。

(2025年1月9日に作成)


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