タイトルマジック・ジョンソンの回想⑥
ピストンズとアイザイア・トーマス

(『MY LIFE』アービン“マジック”ジョンソン ウィリアム・ノヴァク共著から抜粋)

私とアイザイア・トーマスは、NBAで対戦する時はいつも、試合前に挨拶のキスを交わしていた。

男同士のキスに驚いた人もいるだろう。不謹慎とたしなめる記事もあった。
だがこれが私たちの流儀だった。

私は大学時代に、マーク・アグワイヤーを通じてアイザイアと知り合った。
それ以来、3人で一緒に遊ぶようになり、シーズンオフに一緒に旅行したりもした。

アイザイアはバスケについて深く考えているので、真面目に議論できた。

NBA入りしてからは、アイザイアはチャンピオンになることばかり考えていた。
だから私が優勝経験をしてからは、私なりの秘訣も教えてあげた。

アイザイアとマーク・アグワイヤーはデトロイト・ピストンズにいたが、ピストンズとの試合は好きになれなかった。

ピストンズのタフプレーは度を越しており、彼らは自ら「バッド・ボーイズ」と称していた。

ピストンズでもビル・レインビアが一番ひどくて、ファウルする時に相手の頭を殴ったり、相手を床に叩きつけたりが毎度だった。
彼はリーグ1の嫌われ者だった。

レインビアは大男だが、なぜかスリーポイント・シュートが得意だった。

レイカーズは、1987-88シーズンのNBAファイナルでピストンズと対戦した。

この時レイカーズは、連続優勝がかかっていた。

レイカーズのエースのカリーム・アブドゥル・ジャバーは、年齢的にもうすぐ引退するのが明らかだった。
だからチーム全員が、「ここで優勝を逃すとしばらく優勝できないかも」と思っていた。

初戦はピストンズのエイドリアン・ダントリーがシュートを16本中14本決めたのもあり、ピストンズが勝った。

第2戦は、私は風邪で体調が悪く、ハーフタイムに点滴を受ける騒ぎとなったが、それでも23得点して、レイカーズが勝った。

第4戦は、それまで私がラフプレーの標的になってきた事で私はついにキレてしまい、アイザイア・トーマスに仕返しの肘鉄砲を激しく食らわした。

第6戦では、アイザイアが足首をねんざしながらも43得点した。
だがレイカーズが1点差で勝った。

第7戦もレイカーズが勝ち、私たちは連続優勝を達成した。

翌1988-89シーズンも、NBAファイナルはレイカーズとピストンズの戦いだった。

このシーズンのレイカーズは絶好調で、プレーオフに入ると11連勝し、無敗でNBAファイナルまで進んだ。

私たちはスリーピート(3年連続優勝)ができそうな気配だったが、初戦でバイロン・スコットが膝をケガして、第2戦で私まで膝をケガしてしまった。

私がケガした時のチームメイトのがっかりした表情が忘れられない。
結局この年はピストンズの圧勝に終わった。

ピストンズは1988-99シーズンに優勝すると、翌シーズンのファイナルでもポートランド・トレイルブレイザーズに勝って、2年連続で優勝した。

ディフェンスの堅さが勝因で、チャック・デイリー監督の功績だ。

1990-91シーズンのプレーオフでは、ピストンズはイースタン・カンファレンスのファイナルでシカゴ・ブルズに敗北した。

この時ブルズとの最終試合で、試合が終わらないうちに、負けを確信したピストンズの選手が数人コートをあとにした。
アイザイアもその1人だった。

スポーツマンシップに欠ける行いで、どんな言い訳も通用しない愚行だ。

私はこの事件を見て、アイザイアは1992年オリンピックにアメリカ代表として出場してはいけない選手だと思った。(※実際にメンバー入りしなかった)

アイザイア・トーマスは、マイケル・ジョーダンと仲が悪かった。

その発端は1985年のNBAオールスター・ゲームで、アイザイアはチームメイトのマイケルにボールを渡さなかった。

前日のスラムダンク・コンテストで、マイケルはブルズのユニフォームではなく、ナイキのTシャツで登場した。
この事について、ナイキとのタイアップを見せびらかしていると怒った選手がいたようだ。

実はマイケル・ジョーダンとナイキの提携と同じことを、もっと前に私はコンバースに提案したことがあった。

だがコンバースは、「マジック・ジョンソン・シューズなど売れるはずがない」と断ったのである。

(2025年1月9日に作成)


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