タイトルマジック・ジョンソンの回想⑦
HIVに感染、NBA選手の女遊び

(『MY LIFE』アービン“マジック”ジョンソン ウィリアム・ノヴァク共著から抜粋)

私がHIVに感染したことで、人々は私の性生活に強い関心を持った。
そして様々な憶測が飛んだ。

まず言っておくが、私はゲイではない。バイセクシャルでもない。

私はコンドームなしの無防備なセックスを、女性たちとしてきた。これが感染の原因だ。

HIVの知識はあったが、自分が感染することはないとナメていた。

私はHIV感染を公表してから、ゲイの人たちと話す機会に恵まれた。

話してみて、ゲイの人達がどれほど苦しんできたかが理解できた。

私がHIV感染を公表した後、女性テニス選手のナブラチロワが、こう言った。

「もし女性選手が多数の男と関係を持ち、HIVに感染したら、マジック・ジョンソンよりもはるかにひどい扱いを受けるにちがいない。
自堕落な女と決めつけ、商品タイアップも全て解約されるだろう。」

彼女の言う通りだと思う。

私は酒もタバコもせず、楽しみは女性と過ごしてセックスすることだ。

私は妻と結婚するまでは、多くの女性と楽しんでいた。

レイカーズにおいて、ノーム・ニクソンが移籍して去って以来、女遊びのリーダーは私だった。

NBAには古くから、こんな冗談がある。
「遠征に出る時、なにが一番大変か」という質問に対して、「妻に行ってくるのキスをする時、ニヤつかないこと」と答える、というものだ。

NBAのチームが遠征すると、行く先々のホテルで女性たちが待ちかまえている。

レイカーズが人気のあるチームなのもあって、私たちが試合後にホテルに帰ると40~50人の女性がロビーで待っていた。
ほぼ全員が引きしまった体で、職業は様々だが、ほとんどが大学出のキャリアウーマンだった。

彼女たちは、まずサインをねだってくる。
だからサインにルームナンバーを書き添えたり、サインをしながら「電話をくれ」とか「1時間後に会おう」と伝えるのだ。

私の場合、ホテルの部屋に戻ると電話メッセージが10本以上入っていることがよくあった。

また私に届くファンレターには、裸の写真やビデオが同封されていることがあった。

プロになってから数年間は、ロビーで対面したばかりの女性を部屋に連れて上がったこともある。
だがこうした事は、財布を盗まれるといったトラブルを招きやすい。

女をカネで買う選手もいたが、私は女を買ったことは一度もない。

あとは試合のある日に、試合前にセックスすることもなかった。
試合が終わるまではセックスする気になれなかった。

私の場合、試合後でも、翌日に試合がある時は遊はずに休息をとることにしていた。

セックスした相手と、朝まで一緒にいたがる選手もいるが、私はセックスしたら帰ってもらうことしていた。1人で眠りたいからだ。

前もってその事をはっきり伝えることにしていた。それが理由でフラれたことも何度かある。

その一方で私は、女性との会話も楽しみたいタチで、話さないタイプはさっさとお引き取り願うことにしていた。

カネの話の好きな女性は、年棒などカネの話をするほど興奮していた。
何百万ドルも稼ぐ男と寝る、と思うだけで興奮するらしかった。

ルーキーの頃だと、遠征先で寝た相手を本気で好きになってしまう選手も出てくる。

だが上手く行くことはほとんどないので、私は深入りしないよう忠告していた。

あるルーキーが遠征先で寝た女性に夢中になり、再び遠征した時に会いに行ったところ、彼女が他の選手たちとも寝まくっていると分かった、という事もあった。

私がセックスした女性は、奇妙な場所でしたがる人がよくいた。
ホテルの屋上、海岸、飛行機の中、ホテルのエレベーターの中、などだ。

私は、彼女たちの夢の実現のお手伝いをした。

ある女性は、「私の会社に来てほしい。同僚たちが隣りの部屋で会議している間に、自分のデスクでセックスしたい」と言った。
なんとか見つからずにこなした。

「レストランの奥にある電話ボックスでしたい」と言われた時は、さすがに断わった。

私は、複数の女性と同時にセックスするのも何度かした。

上記の性生活を私は楽しんでいたが、時には相手に付きまとわれて慌てることもあった。

1990年に、ある女性が「2歳になる子供の父親はあなただ」と言ってきた。
だが私はこの女性に会った記憶がなかった。

検査の結果、血のつながりは無いと分かった。

私のHIV感染はセックスが原因とはっきりしていたので、私は感染を公表する前に、セックスした女性のうち何人かには電話して、検査を受けるよう勧めた。

私が誰から感染したかは、分からない。

ここで少し、私の妻の語りを挟もう。

「レイカーズの本拠地ロスアンゼルスは、歓楽の町で、男も女も異性を引っかけようとします。
アービン(※マジック・ジョンソンのこと)がなかなか私と結婚する気にならなかったのは、そんな世界にいたからです。

ヒュー・ヘフナー(雑誌『PLAYBOY』の発刊者)は、広い屋敷で毎日、乱痴気パーティをくり広げてました。
ロスならではの事です。

私はアービンと婚約しましたが、2度も解消になり、友達たちは「彼のことは忘れたほうがいい。スーパースターだし、ハリウッドにどっぷり浸かっているんだから」と忠告しました。

アービンは、メリッサという女性と付き合い、アンドレ(息子)が生まれたことを、私に話しました。

アンドレが生まれたのは、私がアービンと別れていた時期です。

(※アービン・マジック・ジョンソンは、メリッサとの間に子供ができても結婚しなかった)

アービンは、NBAのプレーオフの期間は不機嫌になり、緊張しきっていました。
結婚したがらなかったのは、女遊びだけでなく、結婚したらバスケに集中できなくなる、とも考えていたようです。

最終的に私たちは、1991年についに結婚しました。」

(※妻の語りはここまで)

1991年10月に、生命保険の定期健診で、私はHIVに感染していると分かった。

それでNBAの試合を欠場することになり、レイカーズは「インフルエンザだ」と嘘の発表をした。

検査の結果、妻は陰性だった。

私は、血液中のウイルス増殖を困難にするAZTという薬の服用をすすめられた。

11月6日に医者にこう言われた。

「検査の結果、君はまだ免疫システムは冒されていないと分かった。

でもバスケはやらないほうが良い。プロ選手にHIV感染者が出たのは初めてだから、慎重な判断が必要だ。

AZTを服用すると、頭痛、下痢、吐き気、貧血といった副作用に悩まされることがある。

バスケをプレーすれば、免疫システムに多大なストレスがかかり命を縮めかねない。」

だが私は、NBAを休むのはともかく、翌年(1992年)のオリンピックには参加したかった。

11月7日に私は、HIV感染を伝える記者会見を開いた。

公表すると、もともとは末期患者に処方されていたAZTを服用していると知った人々が、重症だと思い込んだ。
だがAZTは最近では予防としても使われていた。

公表したとたんに、私に何百人もがHIVやエイズの治療法を提言してきた。

提言の大半はかなり怪し気なものだった。
ケニアで開発されたケムロンは割と知られていたが、多数の研究機関で実験し効果を否定されていた。

米政府の「エイズ国民委員会」のメンバーになるよう、ブッシュ大統領に誘われたので、引き受けた。

この委員会の報告書を読み、衝撃的を受けた。

エイズは、米国の15~44歳の死因の第5位で、ニューヨークでは青年男女の死因1位だった。
黒人の若い女性は、白人女性の29倍も感染していた。

私はブッシュ大統領と会見し、手紙の形で「エイズ対策に政府予算を年に10億ドルほど出すように」と求めた。

ブッシュから丁寧な返事は来たが、ブッシュ政権は何も動かなかった。

エイズ対策の国家プランは皆無で、失望した私は「エイズ国民委員会」の委員を辞そうと思った。

1992年9月25日にブッシュ大統領に手紙を出し、こう伝えた。

「ことごとく政府に黙殺される委員会に、これ以上は残れません。

あなたがボールを捨てて試合を放棄したのが、残念でなりません。」

(2025年1月9&14日に作成)


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