(『MY LIFE』アービン“マジック”ジョンソン ウィリアム・ノヴァク共著から抜粋)
1992年2月のNBAオールスターゲームに、私は出場した。
私は、その3ヵ月前にエイズのHIVウイルスに感染していると知らされて、91年11月7日に引退発表していた。
NBAの試合に出てなかったのだが、多くのファンが投票して下さって、オールスターゲームの出場メンバーに選出された。
一部の人々は出るべきではないと言ったが、私はバスケがしたかった。
本格的なゲーム出場は1年ぶりだったが、思い通りに足が動きほっとした。
私は心ゆくまで楽しみ、ゲームがいつまでも続いてほしいと願った。
第4クォーターの後半、私はスリーポイントを2本決めて、アイザイア・トーマスとの1オン1でシュートを決めさせなかった。
その1分後にはマイケル・ジョーダンと1オン1して、シュートを決めさせなかった。
試合の残り時間14秒で、私はまたスリーポイントを決めたが、両チームの選手が私を囲んで喜んでくれた。
生まれてこのかた、この時ほど感きわまったことはない。
このオールスターゲームの後、私はレイカーズにおける引退式をした。
対戦相手がセルティックスの試合を選んだ。
ずっとライバル・チームとして、セルティックスと切磋琢磨してきたからだ。
試合のハーフタイムに引退式は行われた。
レイカーズの伝説に残る名選手たち、ウィルト・チェンバレン、ジェリー・ウェスト、 エルジン・ベイラー、カリーム・アブドゥル・ジャバーらが集まってくれた。
カリームが観衆に話し始めて、「マジック・ジョンソンがバスケの楽しさに気づかせてくれた」と言ったとたん、こられきれずに涙があふれた。
カリームは公の場で感情を出さない人だが、彼も泣いていた。
彼のスピーチを聞きながら、私が入団してから5年ほどは彼から避けられていたこと、ようやく彼が私に心を許すようになり兄弟のような仲になったことを思い出していた。
カリームこそ、私がレイカーズで過ごした年月のシンボルだった。
この日の彼は私の兄のようで、私は涙を流しながらいつまでも彼を抱きしめていた。いつまでも離したくなかった。
ラリー・バードも、この引退式にケガをおして参加し、スピーチしてくれた。
ラリー・バードこそ私のライバルで、負けるかもしれないと恐れた選手だった。
引退式が終わり、再開したレイカーズの試合を見ていると、チームメイトとの思い出が走馬灯のようによみがえった。
ジャマール・ウィルクスは、私の最も強いパスを受けられた選手だ。
私がジャマールに出すパスを、他に受けられる選手はNBAにいなかった。
彼ほどしなやかで優雅な動きのシュートができる選手はいないので、「シルク」のあだ名が付いていた。
ノーム・ニクソンは、左に体を反らせて入れるジャンプシュートが得意だった。
会場に来ていた私の父は、ウィルト・チェンバレンに紹介されると、笑いが止まらず最高に嬉しそうだった。
ウィルトは父のあこがれの選手で、「私と息子は、いつもあなたや、ハル・グリーア、ワリ・ジョーンズや、セブンティシクサーズの巧い選手を見てました」 とウィルトに話していた。
1992年6月に、妻との間に息子が誕生した。
この少し前、(妻ではない女性との間に生まれた)11歳の息子アンドレと電話したが、「もし男の子が生まれたら何て名前を付けるの?」と訊ねてきた。
「アービン・ジョンソン3世だ」と答えた。
するとアンドレは、「ねえパパ、それは、僕の名前のはずだよ」と遠慮がちに言った。
ショックだった。受話器を置いたとたんに、私は泣き崩れた。
私は妻やアンドレの母と相談して、アンドレにジョンソン姓を名乗らせることにした。
アンドレは、アンドレ・ジョンソンとなり、大喜びだった。
引退式までしたが、私は同じ年(1992年)の夏に、記者会見を開いてカムバック宣言した。
まだバスケができると感じていたし、体に危険でもプレーしたかった。
私は、1992年夏に開かれるバルセロナ五輪を目指す、アメリカ代表に選ばれた。
アメリカ代表の合宿が始まると、選手たちと仲良くなり、夜はたいてい皆でトランプに興じた。
ラリー・バートと私が、共同キャプテンに指名された。
合宿で私は、マイケル・ジョーダンとマッチアップしたが、1オン1では勝てなかった。彼こそは真の天才である。
オリンピックのアメリカ大陸代表を決めるトーナメントでは、対戦相手が皆、サインや記念写真をねだってきた。
試合の最中でもベンチの選手が記念写真を撮っているのには驚いた。
ラリー・バードは、背中が痛くてあまり試合に出なかった。
バルセロナ・オリンピックが始まると、チームメイトのチャールズ・バークレーが一連の問題発言で注目を浴びた。
彼は論争好きで、ワルを気取って楽しんでいた。
周囲は何度かいさめたが、 彼はコートでやりたい放題をやっていた。
私たちアメリカ代表は、とび抜けて強く、金メダルをとった。
正直なところ、私たちが本気を出せば、70~80点差で勝つこともできた。
しかし私は観客を楽しませようと考え、相手チームに恥をかかせないようにした。
1992年11月2日に、私は再び引退することになった。
NBA開幕直前のエキシビション・ゲームで、私は腕にかすり傷を負った。
コートから出て絆創膏を貼ったが、汗でくっつかなかった。
仕方なくスエットバンドで傷を覆ったものの、選手たちが怯えた。
他にも、ファンの中に「マジックが出場すると試合に集中できない」と言う者がいた。
それで私は引退を決めた。
だがスポーツ競技中にHIV感染があったという記録は1つもない。
私は自分のチームを作り、世界各地をツアーする計画を立てている。
(2025年1月15日に作成)