タイトル中田久美・元バレーボール女子代表監督の回想

(以下はインターネット記事『東京五輪の女子バレーボール代表監督・中田久美氏はいかにして絶望から再起したのか?』元川悦子・署名から抜粋)

(※これは2023年7月27日に配信された記事の抜粋である)

2023年5~7月にかけて行われたネーションズリーグでは、日本代表は男女ともにファイナルラウンドに進出し、女子は7位。男子は初の銅メダルを獲得した。
9月から始まるワールドカップバレー2023(パリ五輪予選)に向けて、手ごたえも多く感じただろう。

そんなバレー界を見守っているのが、2021年夏の東京五輪で女子代表監督を務めた中田久美だ。

2016年10月から2021年7月までの約5年間、女子代表監督をつとめたが、自国開催の五輪でまさかの予選ラウンド敗退となった。
重責を担いながら結果を出せなかった失望感と無力感で、半年以上も自宅から出られない状態に陥ったという。

彼女は今年に入り、Vリーグ3部(V3)に今秋参入する男子チーム、フラーゴラッド鹿児島のエグゼクティブ・ディレクターに就任した。

彼女に東京五輪から現在までを語ってもらった。

中田久美

私は選手として五輪を3度経験しており、監督に就任した頃は東京五輪について華やかな舞台をイメージしていました。

でもコロナ流行という状況が生まれ、感染者を出してはいけないと慎重になりました。選手・スタッフにかなり制限のある生活をお願いしたので、『これが五輪なのか…』という感情は正直、ありましたね。

東京五輪では、無観客で閑散とした中で戦う選手を見ていて複雑な気持ちになりました。
でもそれは他のチームも競技も一緒。
そこで結果を出せなかったのは私の責任です。

古賀(紗理那)がケガをしたり、アクシデントがあった中でも、選手たちは最後まで頑張ってくれた。
ただ、『もっとよくしてあげられたんじゃないか』という思いはずっと残りました。

東京五輪で予選ラウンド敗退となった後は、全然動けなかったですね。
何も考えられず、寝られないし、食べられない。
激ヤセして、体重も50キロくらいまで落ちた時期があったかな。体重計に乗るのが怖かった。

病院に検査に行っても原因が分からずで、ホントに母以外、誰にも会う気力が起きなかったです。

2022年になってから、ちょっとずつ人間生活を取り戻していった感じです。

私が1984年ロサンゼルス五輪で銅メダルを取った頃の日本代表は、プレイしてても面白かった。

『最高のトスって一体、何だろう』と考えたら、私がトスを上げた1983年のアジア選手権・中国戦に突き当りました。

あの中国戦に出ていたメンバーと話して思ったのは、フィードバックを繰り返すことで、『フィードフォワード』になることですね。
これから先に何が起きるかの予測が、6人全員一致するというのかな。
それがあらゆるプレッシャーから解放された『ゾーンに入った瞬間』なのかなと。

誰も違和感を持たずオートマティックに動けて、全てが噛み合う感覚を持てましたから。そんな経験は後にも先にもないです。

東京五輪の後、「何がいけなかったんだろう」という葛藤は正直、ずっとありました。

選手たちにやってあげられることが他にあったんじゃないかと。

座禅の老師に、「あなたは命を削ってやったわけだから素晴らしい。よく頑張りました」と言われて、救われた気持ちになりました。

でもバレーボールの監督をまたする気持ちは、今の所ありません。

(以下は文春オンライン『中田久美インタビュー』吉井妙子の記事
2021年10月23日の配信から抜粋)

東京五輪でバレーボール女子代表は、25年ぶりの予選ラウンド敗退だった。
1勝4敗で全12チーム中10位だった。

東京五輪で女子代表監督を務めた中田久美氏にインタビューした。

中田

心身を摩耗してしまったせいか、五輪終了直後に体調を崩し、検査と静養を繰り返していました。

最近は落ち着いて生活できる日も多くなってきていますが、五輪直後は突然動悸が激しくなって立っていられない症状が続き、人と会うことや話すことも厳しい状態でした。

インタビュアー

東京五輪では、コートサイドにいる中田さんが無表情に見えました。

中田

チームにとって何がベストなのか、環境面なども含め俯瞰的に捉える必要がありました。
オリンピックでのメダル獲得の難しさを知っているだけに、目の前のことに一喜一憂せず「腹を据える」と決めていましたから。

古賀紗理那が初戦の試合中に怪我した時、私が無表情に見えたとしたら、選手達に冷静に戦わせたかったからだと思います。

初戦のケニア戦で古賀が怪我をした瞬間も、あるいは勝った試合も負けた試合の後も、いつもと変わらないよう徹していました。

ただ、自分を分離してしまったその反動は想像していた以上に大きかった。
二人の自分が離れた位置に立っていたせいか、回復するのに長く時間がかかりました。

インタビュアー

それは、やはり母国開催である東京五輪の重圧から来たものですか。

中田

私は五輪に(選手として)3大会出場の経験はありましたが、自国開催の五輪は経験していないので、1964年東京五輪の史料を見て想像するしかありませんでした。

2017年の監督就任以来、東京五輪でのメダル獲得に向けて、現状を変革するくらいの覚悟を持って日本バレーボール協会にも協力を求めました。

なぜなら、東京五輪はスポーツ界全体の分岐点になると思ったからです。

東京五輪でメダルを獲るために、1分、1秒でも手を抜くことはなかったです。

インタビュアー

それは傍から見ていてもよく分かりました。
夕方になると、ご飯を噛むのも面倒になるとおっしゃっていた。

中田

練習後に、その日の練習の内容を分析したり、選手の動きを振り返りながらチェックしていると、夕食を摂るのも億劫になってしまうんです。

練習時の映像を何度もスローにしながら見返すことで、練習中に見えなかった疑問や問題点などが分かることがあります。

その問題に対して、すぐに対処した方がいいのか、もう少し様子を見るべきか、伝えるタイミングや効果的な声掛けなどを考えていると、静止した画面の前で30分以上も固まっていることがたびたびありました。
確かに、優先順位が食事ではないことが多かったです。

その他にも、チーム強化に関わる仕事には提出期限があるものも多いので、時間との戦いでした。
それらを片付けているうちに疲れちゃって、口にものを入れるのも面倒になってしまう。

そういえば一時、瘦せたせいで病気説が流れましたね。でも普通に元気でした。

インタビュアー

中田さんは選手の朝の自主練から夜の練習までずっと選手と一緒にいましたね。

中田

選手から目を離さないようにしていた一番の理由は、ケガのリスクを減らしたかったからです。

選手が負傷するときって、午後の全体練習が終わった後の、自主練の時が多いんです。

オーバーワークだと認識したら、その場でストップをかけなければいけません。

日本代表の選手になると、選考がかかっていることもあり、納得がいくまで練習を止めない選手が多いんです。

でも、その選手のためにはならないと判断したら、途中で強制終了させました。
ケガの一歩手前でやめさせるのも監督の仕事ですから。

インタビュアー

あなたが監督時代の5年間に、日本バレーボール協会と日本代表の現場を繋ぐ“ハブ機能”ともいえる女子強化委員長が二人も替わりました。

そのせいで本来の業務以外のことが増えたのではありませんか。

中田

二人とも病気での辞任なので仕方ありません。

ただ両人とも突然の辞任で、引継ぎが上手くできず、次の女子強化委員長が決まるまで空白期間が生じました。

その間は、強化計画や諸々の準備を進めるための情報がどこにあるのか分からず、特に監督就任時や次年度はかなりあたふたしました。

仕方なく私が予算編成もやりました。
協会から「とりあえず計画を立てて予算を見積もって下さい」と言われたけど、以前の基準が分からないし、データもないから何をどうやったらいいのか…。

オフシーズン中に、チームマネジャーと予算編成も含め来シーズンの準備をするしかなかった。
これが結構なストレスでした。もう少し現場に専念させてほしかった。

とにかく強化委員長の不在は、現場にとっては致命的です。
次の日本代表では、強化委員長の不在だけは絶対に作って欲しくないですね。

インタビュアー

予算が厳しくて、海外遠征に行く選手の人数制限を要求されたこともありましたが。

中田

2018年、19年のネーションズリーグ(以下VNL)の時です。

世界の数か国を移動しながら5週連続で試合をする大会なので、17人の選手を連れて行く予定で予算を組みましたが、直前になって14人に絞って欲しいと指示された。

でも、転戦しながら14人で5週間戦うのはあまりにも選手に負荷がかかるし、そのあとに控えるアジア大会や世界選手権、ワールドカップのことも含めて計画していたので、それは厳しい。

最後は私が自費で選手を連れて行くつもりで協会と交渉したところ、17人で了承されました。

選手の所属チームに対する責任もあります。お預かりしている以上、無事にチームに帰さないといけない。

インタビュアー

そもそも、バレーボール協会から日本代表のビジョンは示されていたのですか。
バスケットボールなどは技術委員会がビジョンや計画を緻密に作成し、現場は協会の方針に従ってチームを作りましたが。

中田

バレーボール協会は残念ながらそこまでは…。

セカンドコーチだったフェルハト・アクバシュが退任したときも、代わりのコーチを探してほしいとお願いしたのですが、「じゃあ、誰がいいんですか」、「他のコーチと相談してください」と言われました。

コーチの人事権は協会にあり、私が決めることではないのですが、一事が万事そんなやり取りでした。

インタビュアー

アクバシュさんはなぜ途中で辞められたのですか。

中田

契約上の問題です。
彼は日本女子代表チームとルーマニアのクラブチームを掛け持ちしていたので、来日するのは代表合宿が始まってしばらく経ってからでした。

五輪が迫る状況下で、セカンドコーチが大会直前に合流するのは疑問だったので、もっと早く来日できないかお願いしました。

でも協会とギャラを含めた諸条件の折り合いがつかなかったと、本人から聞いています。

彼が退任したのは少なからず影響はありました。海外の生情報が入りづらくなったんです。
海外の情報をいち早くキャッチできなくなった。

インタビュアー

コロナ禍で東京五輪が1年延期になった影響はありましたか。

中田

選手のモチベーションが一番心配でした。
五輪が本当に開催されるかどうかも分からない中で、代表合宿も中止。
選手の状態が心配でしたね。

期待していた新鍋理沙選手とセッターの佐藤美弥選手が引退をし、戦術の見直しも強いられました。
新鍋選手は攻守に優れた職人肌の選手だし、佐藤選手は日本が追求してきたテンポの良い速いバレーを武器としていた。

中心選手だった二人の引退は想定外でした。
しかし二人ともずっと怪我を抱えていたこともあり、引き留めはしませんでした。

その一方で朗報もありました。長岡望悠選手と島村春世選手の大怪我からの復帰です。

そして若手の台頭。石川真佑選手は2019年のW杯から出場させてましたが、セッターの籾井あき選手は五輪が1年延びてなかったら招集はなかった。

インタビュアー

でも長岡選手は、VNLには同行しましたが五輪メンバーには残りませんでした。

中田

貴重な左利きだし得点力はあるので、2枚替え要因として必要な選手でした。

若手選手に与える影響も大きく、練習中に長岡選手のプレーをじっと見つめる選手も多かったです。

試合中の存在感もあり、2018年の世界選手権で怪我から復帰した長岡選手を、ドイツ戦の終盤で2枚替え要員として起用したところ、スパイクが決まった瞬間に会場がどよめき、チームの空気も一瞬で変わった。

空気を変えることのできる選手は貴重です。

でも五輪前のVNL開催中の練習時に、また膝を痛めてしまった。

何とか調子を取り戻してほしいと願っていたし、長岡選手もリハビリを行い懸命に頑張っていましたが、最後まで調子は戻りませんでした。

五輪メンバー12名を選考するため選手一人一人と面談した時、長岡選手の方から「私はやり切りました。後悔はありません。ありがとうございました」と。
その時の彼女のどこかほっとしたような複雑な表情を今でも忘れられません。

インタビュアー

五輪メンバーの12人に絞るとき、相当悩まれましたか。

中田

代表監督の仕事で一番辛い瞬間ですね。

まず、外す選手の所属チームに連絡をし、フォローをよろしくお願いしますと断りを入れてから選手一人一人と面談します。

その選手には未来がありますから、問題や課題を伝え、逆に質問したりしながら、次に繋がるように心配りしました。

私がVリーグの監督をしていた時代、最終選考に漏れてチームに戻ってきた選手の落ち込みようは大変なものでした。
引退する選手もいましたし、再びやる気を起こさせるには時間がかかりました。

ですから外す選手にも、やる気を削ぐことなくさらに飛躍できるような言葉をかけたつもりです。

インタビュアー

五輪メンバーの選考では、ミドルブロッカーを4人を選んだことに異論を唱える関係者もいました。

中田

五輪では大概、アタッカー6名、ミドル3名、セッター2名、リベロ1名という布陣でしょうか。

しかし東京五輪でミドルのスタメンを荒木絵里香選手(37歳)、島村選手とした場合、荒木選手はぎりぎりの状態でコンディション調整が必要、島村選手は腰痛が再発するリスクがあった。

もし二人の出場が厳しかった場合、ミドル3名では不安という思いがありました。
だからベテランでブロックの読みが良い奥村麻依選手と、高さと打力のある若手の山田二千華選手を入れたんです。

2枚替えの時に奥村選手か山田選手をライトに起用すれば、二人ともワンレグ(横に走り片足で打つ)が打てるし、ダブルブロード(ミドルとライトが同時に走り相手のブロックを散らす戦術)が使える。

攻撃力が落ちてもワンタッチさえとってくれれば、相手の攻撃も凌げるという計算がありました。

インタビュアー

初戦のケニア戦でエースの古賀紗理那がケガをした。その影響は甚大だったのでは。

中田

もちろんです。チームの精神的支柱でもありましたから…。

五輪はやはり自分の想像を超えたことが起きてしまう。
でも動揺はしなかった。そう来たか、と。

彼女はリオ五輪の時は直前にメンバーから外されたので、東京五輪に賭ける思いは誰よりも強かった。そんな古賀選手のこの5年間は何だったのか…と思うと、五輪の神様を恨めしくもなりましたね。

インタビュアー

古賀選手の怪我のあと、選手間の雰囲気はどうだったんでしょう。

中田

古賀選手のために戦うとギアを上げる選手もいれば、チームの攻守の要だっただけに戸惑う選手もいました。
私は平然とチームを締めましたけど、選手たちから不安を取り除くことができなかった……と思います。

チーム全員が怪我した古賀選手に対して気遣いし、古賀選手もまたみんなに気を使っていた。
選手たちの人の好さが出てしまい、獲物を狙うようなギラギラした視線がちょっと霞んでしまったのかな…。

インタビュアー

東京五輪では、決勝ラウンド進出がかかる韓国戦の第5セットで、14-12とマッチポイントを取りながら、セッターの籾井選手がサイドの石川選手に4回連続でトスを上げ続けたことも疑問視されました。

中田

私もセッター出身者ですから、籾井選手が石川選手にトスを上げ続けた思いは理解できるんです。

石川選手と籾井選手は四六時中話し合っていました。
籾井選手は石川選手にこういうタイミングで入ってきて欲しいとか、石川選手はこういう場合はこんなトスが欲しいとか、かなり擦り合わせをしていた。

2人は積極的に取り組んでいたし、逆に短時間の中であれだけのバレーを展開できたことを私は評価していましたね。

セッターは究極の場面で、最も信頼できるアタッカーに上げるのが定石なんです。
だから籾井選手は石川選手に上げ続けた。石川選手に託したんだと思います。

結果的に負けましたが、私は籾井選手を責める気持ちにはなれませんし、そこを否定したら籾井選手の成長や良さがなくなる。
籾井選手のトスで勝てた試合もあるし、負けた責任は起用した私にあります。

インタビュアー

それにしても、国際大会の経験のない籾井選手を、五輪の年にいきなり正セッターに据えたことに驚きました。

中田

セッターには頭を痛めてました。
初年度は冨永(岩崎)こよみ選手を選び、2年目は田代佳奈美選手、そして3年目からは佐藤美弥選手(31)を抜てきしました。

佐藤選手で固められるかなと思った矢先に、彼女はケガをしてしまった。

セッターは、日本のコンビバレーや攻撃のバリエーションを追求するうえで最重要のポジションです。
極端な言い方をすれば、セッターの能力次第で勝敗が決まってしまう場合もあります。

リオ五輪に出場した宮下遥選手も、代表の合宿には度々呼んでいました。
彼女のレシーブ力は日本トップクラスだし、セッターというポジションについても深く考えている。

宮下選手は五輪経験もあるので、戦力として考えていましたが、アタッカー陣のタイミングと彼女のトスがマッチしなかった。

そこに彗星のごとく現れたのが籾井選手でした。
初代表にも関わらず、セッターに必要な強気な性格はもちろん、ミドルやバックアタックを使った速い攻撃ができるバリエーションの広さに目を見張りました。

そしてトスの間(ま)を手首や指先で微妙に調整し、アタッカーが打ちやすいトスを上げるハンドリングの上手さは、先天的なセンスです。教えて身につく技術ではありません。

インタビュアー

籾井選手は2019年末までペルー国籍だったため、ジュニアでも日本代表経験は無かった。その選手を2021年5月の東京チャレンジマッチでデビューさせた。

中田

3-0で負けたとはいえ、籾井選手は国際試合デビュー戦をビビることなく戦っていました。かなりの強心臓です。

彼女に一番足りないのは経験で、セッターは経験を積むことによって技術が磨かれる。だから籾井選手には多くの国際大会を積ませたいと考えました。

強心臓の選手じゃないとこういう荒業はできない。プレッシャーでつぶれますから。

東京チャレンジマッチで籾井選手で行けると確信したので、その3週間後から始まったVNLでは17戦中15戦で籾井を使いました。東京五輪でコートに立たせるためです。

VNLと五輪の違いは私自身が経験していますから、そう簡単ではないことは承知の上で、東京五輪に起用しました。

インタビュアー

東京五輪前のVNLでは、見事な戦い方でした。
中田さんはこんなバレーを目指していたのかと腑に落ちました。

選手全員がスピード溢れる動きで、攻撃は常に3枚か4枚。相手のブロックが完成する前に攻撃していた。

それだけに、東京五輪の戦いにはもやもやしたものが残りました。

中田

あのVNLはイタリアのリミニで5週間バブル方式で行われたのですが、ほとんどの国がコロナ禍で国際大会に出場できてなかったのもあり、五輪前の最後の大会とあって、みな本気モードでした。

日本は若手中心の布陣を組みました。
まだ、その時点で五輪が本当に開催されるかどうかも不確実でしたし、若手選手を積極的に起用して、勢いを大事にしながらチームを固めようと考えました。

そんな中、荒木選手が雑誌のインタビューか何かで、「このチームに足りないのは成功体験」と発言しているのを知り、なるほどね…と。

2021シーズンは荒木選手に主将をしてもらいましたが、若い選手の勢いは一旦走りだすと止まらない。
VNLでは中国やトルコ、ロシアなど強豪国を次々破り、12勝3敗で決勝ラウンドに進みました。

ただ、決勝ラウンドでは相手の底力と気迫に押し切られ、4位という結果に終わりました。

インタビュアー

東京五輪では何が足りなかったのですか。

バレーボール協会の嶋岡健治・会長は、次期代表監督の発表する記者会見の時に、「VNLで予想外の決勝進出をし、帰国後の東京五輪までの調整期間が短すぎた」と仰っていましたが。

中田

今考えれば、帰国後の隔離期間を厳しくしてしまったかなという反省があります。VNLが終わったのが6月末。五輪まで1か月もありませんでした。

帰国してすぐに(コロナウイルス絡みで)2週間の隔離期間がありました。
私は女子バレー界からコロナ患者を絶対に出してはいけないと考えていたので、隔離期間中に人に接しないように厳命しました。

VNLのバブル方式、帰国して2週間の隔離生活で、選手は結果的に1か月半ほど不自由な生活を強いられました。

コロナワクチンの注射も、VNLに出発する前に打てるよう協会に手配をお願いしたのですがなかなか難しく、結局帰国してからでした。
2回目を打てたのがオリンピック村に入る2日前です。

五輪前に選手に気分転換する時間を作ってあげられなかったことや、五輪直前の最終調整が不十分だったことなど、敗因をあげればキリがありません。

でも、どんな状況でも結果を残すチームが力のあるチームなんです。

インタビュアー

VNLで敢えて負けて、決勝ラウンドには進まず早めに帰国し、五輪に向け調整するというプランはなかったのですか。

中田

そもそも出場しないというプランもありました。

ただ、コロナ禍で五輪が1年延期されたことで、代表メンバーが大幅に変わり、試合をしながらチームを作っていかなければならない事情もありました。

それに選手にとって負けていい試合なんて一つもありません。コートに入ったら全力で戦うのが選手です。

私はVNLでああいう戦い方をしてよかったと思っています。

五輪で力を出さなければ意味はないと言われそうですが、次代を担う選手たちが世界に伍して戦える経験をしたことは大きかったと思います。

インタビュアー

これからの選手たちに提案することはありますか。

中田

代表を目指す選手は、日常から国際基準の目を養ってほしいですね。
代表に選ばれてから国際基準に合わせるのではなく、常に世界レベルを意識し、所属チームでも練習から取り組んでほしいと思います。

海外移籍も選択肢のひとつとなる時代です。

イタリアで活躍する石川祐希選手が男子バレーにプロ意識を持ち込みチームを変えたように、女子にもそんな選手が現れて欲しい。

帰る場所が保証されたレンタル移籍で行くのではなく、そこで本気で生き抜き、自身の商品価値を高める覚悟を持った選手です。

ただし、海外のチームはプロ契約ですので、そこに育成は含まれません。

強豪国の選手たちは、ストイックに日常を律し、自分の価値を高めています。
腕一本で世界を渡り歩くタフさを持っている。

そういう選手たちが結集してナショナルチームを作る国はやっぱり強いし、勝負の瀬戸際でも崩れない。

そして自分がなぜ戦うのかという意味を自分に落とし込んで欲しい。そういう哲学がないと、勝負所で崩れます。

(2024年12月29日、2025年11月10日に作成)


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