タイトル野球の大打者たち

(『引退そのドラマ』近藤唯之著(昭和61年発行の本)から抜粋)

○長島茂雄

名捕手の野村克也は、長島茂雄をこう評した。

「日本シリーズやオールスター戦などで長島と勝負したが、長島が何を考え、何を待っているのか、分からず終いだった。

捕手が気持ちを読み切れない点では、長島ほど恐ろしい打者はいませんでした。」

昭和48年7月17日の試合で、長島は平松政次(まさじ)投手の決めダマである内角ぎりぎりのカミソリ・シュートを本塁打した。

「相手の決めダマを狙い打ちする意味は、2つあるんです。

技術的に言えば、相手は勝負所でそのタマを2度と使えなくなる。

精神的に言えば、相手は敗北感にひたる事になる。」

長島は、相手投手を追いこむために、決めダマを狙って打ったのである。

普通は決めダマを避けるから、野村も正体不明とさじを投げたのだ。

長島は、こうも言う。

「もう1つ本音を吐くと、決めダマを打つと体がぞくぞく震えます。
あの快感なんですねえ。」

昭和49年5月22日の試合で、長島は江夏豊・投手と対戦した。

長島は相手の決めダマを狙うから、江夏の内角低めのカーブに絞って待った。

江夏は長島の腹を読み、「俺の決めダマを打てるなら打ってみろ」と、2ー3のカウントで投げた。

長島は空振り三振した。
バットにカーブはかすりもしなかった。

この打席が運命の打席となり、5ヵ月後には感動的な引退劇となった。

なお江夏から三振した時、長島の打率は2割2分9厘だった。

○張本勲

引退後に野球評論家となった張本勲は、次のように言う。

「2度と打席には立ちたくないです。
OB戦などで打席に立つ時、 声を上げて逃げ出したい気分ですね。」

張本勲は、3085本の史上最多安打数と、終身打率・歴代1位の3割1分9厘の記録を持つ人だ。

(※昭和61年の時点。現在では打率は歴代3位になった)

張本は低めぎりぎりの球を狙うとき、心もち首を捕手寄りに傾けて照準を合わせた。

できるだけ横から投球をとらえる工夫である。

もう1つ、張本は左打者だが、右足を引いて踏み出して降ろす際、音がしないように努力した。

彼は言う。
「このネコ足を会得するのに10年かかりました。
新人から数年間はバタバタ踏み出してました。」

昭和56年9月2日の試合で、山内孝徳・投手の内角すれすれの直球でストライクをとられた時、張本は初めて内角直球に震えるような恐怖心をおぼえた。

その夜、「ボールが恐くなったら引退の時期なのだろうか」と、引退の思いが走った。

この年に張本は引退した。

○王貞治

私が王貞治に、引退に追い込んだものは何だったのかと聞いた時、意外な人物を持ち出した。

王はこう言った。

「ハンク・アーロンのせいだなあ。
あの男が本塁打を900本も打ってくれていたら、私の引退もあと2年伸びたと思います。」

ハンク・アーロンは、755本の大リーグ本塁打記録をつくった男である。

王は昭和52年8月31日の試合で、755本目の本塁打を打ち、ハンク・アーロンの記録と並んだ。

この瞬間から日本中が沸きに沸いた。

そして9月3日に756号の世界新記録を達成すると、2日後には「国民栄誉賞」の初めての受賞者となった。

756号を打った夜、王は球場から日本テレビに直行して番組に出演し、自宅に戻ったのは午前2時すぎだった。

2時すぎなのに、玄関前には700人のファンが待っていた。

王は握手とサインをして家の中に入ったが、それからも同級生などから祝いの電話があって、寝たのは4時すぎだった。

それからしばらくは、毎日ファンが自宅に押しかけ、握手やサインをし続けた。

王は言う。

「野球以外の仕事が増えすぎました。野球だけにのめり込めなくなった。

国民栄誉賞も70歳をすぎてから頂きたかった。」

昭和55年11月4日に王は引退を発表したが、王はこう話す。

「引退前の10月4日の試合で、池谷(いけがや)投手の速球に打ちとられた。

若い選手たちには速く見えない球が、私には速く見える。俺も終わりだと思いました。

でも悔しさがわかず、俺には悔しさもなくなったかと絶望的になりました。」

私はこの年、試合中に次のシーンを見た。

打席の回ってこない時に、王はモニターテレビを見にきたが、ルービックキューブを持った従業員が現れると、10数秒だがそのルービックキューブを回し始めた。

このシーンを見た時、もう王は燃えつきたのだと思った。

(2024年5月10~11日に作成)


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