(『独白』花田勝著 2000年8月刊行から抜粋)
僕が13年間の力士生活を終えて引退することにしたのは、平成12年(2000年)の3月場所です。
引退した翌場所(5月場所)は、僕の親方としての初仕事でしたが、土俵を見て改めて怖くなりました。
「土俵にはもう2度と上がれない」と思いました。
大相撲の現役時代は、恐怖心との闘いの日々で、本場所中は熟睡したことは1度もありませんでした。
本場所中は、夜に布団に入ると、翌日の取り口や相撲を考えます。
立ち合いやその後の動きを、必死に頭の中でシュミレーションしていくのですが、土俵に頭から叩きつけられたり、土俵から放り出されて全身を打ちつける場面も考えてしまうのです。
曙関の220kg以上の体重の乗った突き押しを考えると、「もしかしたら死ぬかもしれない」と思えてしまう。
対戦相手が誰でも、いつも不安になりました。
大関や横綱になれば、不安もなくなるかと思ったこともありましたが、横綱になってみると責任感から、より不安はつのりました。
だから僕は横綱になってから、秘かに家族に遺書を書いていたほどです。
相撲の立ち合いは、頭から当たると衝撃が全身に走ります。
「目から火花が散る」という表現がおおげさに思えないほどの衝撃です。
だから立ち合いでは逃げたくなりますが、「逃げるなよ」と、自分に言い聞かせます。
立ち合いでは、頭を左右に動かして、芯をずらして衝撃を和らげていました。
取組を終えると、本当にクタクタで、横になって身体を休めないといられませんでした。
力士は孤独な職業で、本場所の成績でしか評価されません。
白黒はっきりと勝負がつき、何千万人がその結果を見ています。
僕は大相撲に入った時、「十両も無理だ」とか「よくて三役を一場所か」と言われました。
弟の光司は「大関か横綱までいく」と騒がれていて、その差が僕の闘志を高めてくれました。
子供の頃は、「大関が一番だ」と思っていました。
それは父が長く大関だったからです。
ところが僕が大関まで昇進した時、「お前の親父は大関止まりだった」と言う人がいました。
すごく悔しくて、横綱になってやるとの気持ちが強くなりました。
僕の引退会見でも話しましたが、土俵生活で一番楽しかったのは、兄弟で横綱になれたことです。
逆に一番辛かったのは、1995年11月場所で、弟の光司と優勝決定戦をやったことです。
光司との対戦で、大ケガをさせてしまったり、僕が大ケガをしてしまったら、僕たち家族はどうなるのか。
結果は僕が勝ちましたが、記者に感想を求められても、「もう二度とやりたくない」としか答えられませんでした。
ファンの方たちは喜んで下さったようですが、僕としてはいつも以上に不安と恐怖が大きかったのです。
本場所中は、10日目を過ぎると、成績に関係なく、すごく疲れを感じました。
疲労がたまってきて、食欲も湧きません。
それでも夜には布団の上に座って、翌日の取組のシュミレーションをします。
「大ケガをするかも...」と考え出すと、眠ることなんてできません。
今だから言えますが、幕下時代の一時期、毎晩、睡眠薬を飲んでいたことがあります。
そのうち困ったことになりました。飲んでも効かなくなってしまった。
あまりに量が増えたので、やめようと決意しましたが、やめるのも地獄の苦しみでした。
優勝が決まった晩くらいは、安心して眠れるかと思っていましたが、優勝を決めると余計に疲れが出てくる感じでした。
僕は関取になってから、一度も全勝したことがありませんが、優勝が決まるともうそれで十分と思ってしまうのです。
何度も全勝優勝した光司との力量の違いは、そこなんです。
1997年1月場所では、僕は14連勝で優勝を決めましたが、その晩はドーッと疲れが出ました。
結局、翌日は負けました。
僕は大関になってからは、ケガで休場も多くなりました。
病院の先生から「稽古はやらないように」とストップがかかっても、親父やマスコミは 「若乃花は稽古をしていない」と叩く。
稽古ができないと、自分への不満や、これからの不安が大きくふくれ上がりました。
本当に辛くなった時は、夜中に一人で海を見に行きました。
本場所中にもしょっちゅう抜け出し、東京場所なら芝浦、湘南、お台場までドライブしました。
そして砂浜に座り、ずっと波の音を聞いてました。
朝方まで居た時もあります。
海を見て波の音を聞くだけで、穏やかな気持ちになり、怖い気持ちが消えました。
宿舎に戻っても、1時間くらいはぐっすり眠れました。
1999年9月場所で(横綱なのに)負け越した時に、僕は一度、引退を決意しました。
でも親方と時津風・理事長にお会いして、話し合い、まだ頑張ることにしました。
それで半年近く休んでから2000年3月場所に出たのですが、切れた気力を取り戻すことはできませんでした。
僕が引退することになった2000年3月場所は、それまでと違い、取組中もお客さんの歓声が聞こえました。
いつもならば、取組中は勝負に集中し、歓声は聞こえなくなります。
軍配が上がった瞬間に、また歓声が耳に戻ってくる。
ところがこの場所では、歓声が取組中にもよく聞こえたので、相撲に集中できてないし、集中できる気力が残っていないと気付きました。
引退すべき時だと、はっきりと悟ったのです。
栃東関は、中学と高校の時に後輩で、「引退する時は彼との一番を最後にする」と以前から思っていました。
この3月場所の5日目に栃東関に負けた時、「あの幼かった子がこんなに強くなったか」と思いました。
すっきりした気分でした。
この取組を最後に、引退を決断しました。
栃東関に負けて引退を決めると、まず親方(父)に会い、正座して「13年間、どうもありがとうございます」と頭を下げました。
父は「わかった」と言い、優しい顔をしてました。
さらに父は、「小さな体でよく頑張ってきたな、本当にご苦労さん」と言い、僕はとても驚きました。
入門してからこれまで、父に褒められた事が一度も無かったからです。
僕が横綱になってからも、「稽古が足りない、努力が足らん。光司を見ろ、お前は全然 稽古をやってないじゃないか」と怒鳴られてきました。
殴られたことだってありました。
だから母にすぐ電話して、「オレ、親父にご苦労さんって言わせたよ」と伝えました。
光司(横綱・貴乃花)に引退を報告すると、何度もうなずいてくれました。
引退会見が、急遽、午後9時から行われました。
それを終えて宿舎に戻り寝ようとしたら、体が予期しない変化に襲われました。
寒気がして体中が震え、あちこちが痛くなりました。
熱はなく、汗もかかずで、風邪ではないと思いました。
緊張感が解けて、逆に体にきたのでしょう。
その夜と翌日は一睡もできませんでした。
母に話すと、元大関の霧島さんも引退した時に同じだったと何かで読んだと、教えてくれました。
僕が現役時代に隠し通したことは、左の股関節が弱いことです。
小学校の時にここを脱臼し、それからは相撲の稽古中におかしくなり痛み出すことがありました。
左足では踏ん張れないので、基本的に右を差して、右足を前に前に踏み出してゆきました。
右の前みつを取って頭をつけるスタイルです。
左足はなるべく股を開かないようにしていました。
それでも足のケガは、左足ばかりでした。
僕は握力は右が70キロ以上、左は50キロでした。
でも、相撲協会の健康診断では、右も50キロになるよう力をセーブしてました。
他の力士に左が弱いと勘づかれないためです。
引退する直前には、自分の弱点を隠すのも疲れた、という心境でした。
僕は、体調が良くて思うように相撲か取れる時は、相手のまわしが光って見えるんです。
取組中に、つかんで投げるべき所が、光って見える。
光っている部分をつかめば、不利な流れを変えて、自分の相撲に持ち込めるのが分かってました。
ところが、それをNHKの放送で言ったら、多くの親方や力士仲間から、「ここまでか?」と思うほど笑われました。
「何をバカなことを言うんだ」とか、「まわしが光るなんて有り得ない」とか言われました。
それで僕は、引退するまで相撲のことを一切語らなくしたのです。
ケガが多くなって、稽古があまりできなくなってからは、とにかく相手の相撲を見て、取り口や弱点をインプットしてました。
本場所での取組は、稽古場とは全く違う感覚になります。
大型力士と対戦したら、周りは全然見えません。
だから土俵のどこにいるかは、勘に頼ることになります。
僕が横綱までいったのは、頭の中に土俵があり、土俵のどこにいるかをとっさに判断できたからだと思います。
取組の流れは、頭の中でシュミレーションしておいたどれかに当てはまる展開がほとんどでした。
本場所中は、宿舎を出て会場が近づくにつれて、気持ちが異常なまでに興奮しました。
皮膚の外に神経が飛び出た感じで、小さな風の流れがはっきりと感じ取れました。
会場入りでは、ファンに体を触られることも多いですが、全身の感受性がピークに向かう中、軽く触れられるのも不快でした。
支度部屋に入ると、付け人と共に、立ち合いなどをシュミレーションします。
トイレに入るとき、いつも「呼ぼうと呼ぶまいと、神はここにいる」 (VOCATUS ATQUE NON VOCATUS DEUS AD EST)とつぶやきました。
この言葉に出会ったのは、どこかのホテルで枕もとにあった聖書をめくったら、目に飛び込んできたので、意味が分からぬままに紙に書き写したのです。
支度部屋を出て花道に向かう時、心臓の鼓動は熱いほどになります。
僕は目を閉じて手を合わせ、「神様、力を下さい。ケガをしませんように」と祈ってました。
思い浮かべる神様のイメージは、マリア様でした。
でもキリスト教を信仰しているわけではありません。
呼び出しの時に出る懸賞の垂れ幕は、数えたことはありません。
取組のことで頭が一杯でした。
仕切りの間は、相手を観察して、立ち合いをどうするか決めます。
仕切りに入ると、自分の体が土俵と一体になっている気がしたし、土俵に上がるときは誰かが降りてくる感じがしました。
土俵を割って負けそうになる時、その誰かが僕を後押ししてくれる感じもありました。
取組を終えて支度部屋に戻ると、いつも自分の手や足をさすりながら、「ありがとう、力になってくれて」とお礼を言っていました。
(2024年5月30日、6月1日に作成)