タイトル花田勝(相撲の若乃花)の回想②
花田家、入門から若貴ブームまで

(『独白』花田勝著から抜粋)

僕の生まれた家、花田家は、門限を守る、嘘をつかない、挨拶をきちんとする、の3つがルールでした。

この3つを厳守するよう、両親から言われて育ちました。

これを破ると、母から布団叩きや木刀でお尻を叩かれました。

父(大関の貴ノ花、引退してからは藤島親方)は、口数は少なく、僕は殴られることもよくありました。

僕が父に自分の考えを説明するのは、逆効果で、「言い訳ばかりするな!」と叱られました。

父は、「男は親が死ぬまで絶対に泣くな」と常に言ってました。

僕は横綱になってからも、父から怒鳴られたり殴られたりしました。

こんな両親なので、僕は子供の頃から両親には心を閉ざしました。

唯一、心を開くことができたのは、弟の光司です。

幼い頃、両親は光司ばかりを可愛がっているように見えました。

母から「あなたは一人でも生きていけるから」と言われた事は、今でも忘れられません。

あなたは大丈夫だけど、不器用な光司は目を離せない、という意味でしょうが、トラウマになりました。

僕は子供のうちから、「両親と光司は、僕とは少し違う人間なんだ。僕は1人で生きていくんだ。」と思いました。

僕は小学校のとき、2回転校しています。

1回目は5年生になる時で、クラスメートにおとなしい子が多くて、外で遊ぶ雰囲気ではないので、父が転校させたんです。

さらに6年生になる時には、父が藤島部屋を興したので転校しました。

中学・高校では相撲部に入りましたが、やはり両親が求めていたからでしょう。

僕は中学3年の時に相撲部は、東京都中学総体団体で4連覇しました。

高校でも僕は個人の部で、1年生の時は東京都で1位に、2年生の時は全国で2位になりました。

僕と弟の光司が、「藤島部屋」(父親の経営する相撲部屋)に入門したのは、1988年2月21日です。

僕は高校を2年で中退、光司は中学を卒業見込みでの入門でした。

僕は学校の勉強が苦手で、授業で60分座っているのが苦痛でした。
頭がおかしくなりそうで、トイレに逃げ込んで泣きそうになってたんです。

だから光司が中学3年の冬に入門を決めた時、「やっぱり僕にも相撲しかないか」と思い、一緒に入門することにしました。

入門前に、藤島部屋の力士の胸をかりたら、全然勝てなかった。

だから僕と光司は、学生相撲で優秀な成績を挙げていましたが、「過去は捨てような」と2人で話しました。

僕は入門する前から、藤島部屋に入門しても番付が上がらずに辞めていく力士を、間近で見ていました。

だから、「よほど気持ちを引き締めていかないと」、と思ってました。

四股名は、僕は「若花田」、光司は「貴花田」になりました。

いよいよ入門するという日、両親、光司と共に外食しました。

そこで父は、僕と光司に、こう言いました。

「これからはガラスの生活だぞ。マスコミの目が光っている。何をしても書かれてしまう。その覚悟で行けるな?」

母もこう言いました。

「他の弟子たちは1年に1度くらいは故郷に帰れるけど、あなたたちは帰る所はないのよ。大丈夫ね?」

食事を終えて家に帰ってから、僕と光司は父に、「今日からは親方と弟子になりますが、よろしくお願いします」と頭を下げました。

この時に僕らは、思いもかけない光景に出くわしました。

父が涙をこぼして、声をあげて泣き出したんです。

生まれて初めて父の涙を見て、「オレたちのことをすごく愛してくれていたんだ。稽古して強くなろう。強くなるまでは遊ぶこと考えるのはよそう。」と思いました。
僕も泣きました。

光司は泣きながら自分の部屋に去り、母が追いかけていきました。

やがて落ち着いた光司と母が戻ってくると、父は「これからは親が死ぬまで絶対に泣くな」と、また言いました。

入門の事はメディアに伝えてあったので、玄関から出るとカメラマンがびっしり並んでました。

カメラのフラッシュが一斉にたかれ、これが父の言うガラスの生活なんだと思いました。

入門してみると、入門する前は親しくしてくれた兄弟子ほど、僕らに意地悪く接しました。

両親は僕らを特別扱いできないし、僕らがいじめられているのに気付いても、見て見ぬふりでした。

いじめられた時は、光司と2人でいるのがすごく心強かったし、兄弟の絆は深まりました。

いじめてくる兄弟子に対して、徐々に稽古場でやり返せるようになりました。

光司も、嫌いな兄弟子を吊り上げて、はめ板に叩きつけてました。

だから目の色を変えてぶつかってきた兄弟子もいました。

僕は、入門から1年経たずに、幕下まで出世しました。

藤島部屋は、おかみさん(母)の方針で、チャンコ以外も色々なおかずが出て、腹一杯食べられました。

力士に対して相撲協会から支給される力士養成費に加えて、藤島部屋は自腹を切って食費を足していました。

地方巡業に出ると、土俵は取り合いになります。

巡業中、新弟子はホテルには泊れず、公民館や一般のお宅に泊まります。
会場の外でゴザを体に巻いて寝たこともあります。

土俵での稽古は混雑し、午前1~2時に土俵に行っても、幕下の兄弟子がいて土俵に入れないことも多かったです。

入門した翌年(1989年)に入ると、元号がすぐに平成に変わりました。

僕は幕下になったので、稽古場で安芸乃島関や貴ノ浜関の胸を借りることになりました。

いよいよ関取と稽古できて、その実力を味わうことになったのです。

3、4番とこなしていくと、勝つまではいかなくても、「オレ、関取になれるわ。あと1年ぐらいで貴ノ浜関に勝てる」と感じました。

僕は1989年1月場所で、入門してから初めて負け越しました。

一方、光司は、この年の5月場所で幕下に出世すると、いきなり全勝して、史上最年少で幕下優勝しました。

光司は9月場所でも全勝優勝して、11月場所での十両昇進が決まりました。
17歳2ヵ月の史上最年少で関取になったのです。

関取になると、稽古場では白いまわしを締められるし、給料が出るし、付け人がついて身の回りのことを全てしてくれます。

(※幕下から十両に上がると、関取と呼ばれることになり、一気に待遇が変わる)

僕は光司より2場所遅れで、十両に昇進しました。

光司は1990年7月場所で十両優勝して、9月場所で史上最年少で入幕しました。

その後も、小結、関脇の昇進も最年少記録をぬり替えました。

1992年1月場所で、光司が幕内において初優勝した時は、新聞の号外まで出て、若貴ブームがピークに達しました。

この場所は、二子山・理事長(元若ノ花)が勇退することが決まっており、光司がそれに華をそえる意味合いが強くなっていました。

光司は史上初の10代での幕内優勝でした。

1993年2月1日に、二子山親方が退職し、藤島部屋と二子山部屋が合併しました。

僕らのいる部屋は、「二子山部屋」となり、力士が50人も所属して、「三役独占の部屋」などと言われるようになりました。

1993年3月場所は、光司は大関になり、四股名を「貴花田」から「貴ノ花」に改めました。

僕はこの場所で初優勝して、次の5月場所で「若花田」から「若ノ花」に改めました。

若ノ花は、過去に2人の横綱が名乗った由緒ある四股名です。
この名を汚さない活躍をしなければ、と思いました。

この当時の僕は、光司の優勝が見えてくると、光司と優勝を争う力士を全力で倒しに行きました。
いわゆる援護射撃です。

僕はもともと、主役よりも味のある脇役が好きなんです。
だから光司の優勝をサポートする局面で、心が燃えました。

そういう時は、前日の夜に布団の上で精神集中し、「明日は絶対に勝つ。光司のために」と自分に言い聞かせました。

すると涙がボロボロとこぼれて、止まりませんでした。
緊張と興奮のあまり泣いたのでしょう。

僕は気合が入るほど強くなるタイプで、こういう時はほとんど負けませんでした。

光司からは、改まってお礼を言われたことはありません。

僕ひとりで 「オレが勝ったからだ。光司の優勝に貢献できた。」と喜んでました。

僕と光司は、大関になると、給料も上がったので、個人トレーナーを雇いました。

それで筋肉の動きや仕組みもずい分教わりました。

1993年の暮れに、僕は美恵子と付き合っているのがスクープされ、翌94年2月に婚約を発表しました。
6月に結婚式をあげました。

僕と美恵子が婚約発表をした時、翌日の新聞を見て驚きました。

美恵子がファッション誌などでモデルをしていて、女の子に人気があったと知ったからです。
全く聞いてなかった話でした。

僕が婚約すると、ファンレターやプレゼントは激減しました。

ところが離婚騒動が起きた時に、「私が横綱と一緒になります」という手紙が次々と送られてきました。

1994年1月場所は、光司は大関のカド番でしたが、4回目の優勝をしました。

1994年の11月場所前に、僕は「若ノ花」から「若乃花」に、光司は「貴ノ花」から「貴乃花」に四股名を改名しました。

この場所で光司は優勝し、横綱昇進を決めました。

1995年11月場所は、僕と光司は優勝決定戦をしました。

僕が勝って優勝しました。
でも僕も光司もやりづらかったです。

後になって、週刊誌が「決定戦の前夜、親方が貴乃花に『明日は分かっているだろうな』と言い含めた」と報じました。

僕の全く知らない話です。

1996年1月場所は、僕は初めての綱取りのかかる場所でしたが、初日から3連敗して4日目から休場しました。

風邪をこじらせての入院でした。

1996年の3~9月場所は、光司が4場所連続で優勝しました。

この時の7月場所は、後になってみると、光司のことを考えて援護射撃した最後の場所になりました。

この年の11月場所から、僕にとって予想しないことばかりが起きる展開になり、僕は「自分のことだけ考えよう」と意識を改めたのです。

11月場所は、光司は背筋を痛めて、初めて全休しました。

そして千秋楽の日、11勝4敗で5人が並び、史上初の5人による優勝決定戦が行われました。

僕もそこに入ったのですが負けてしまい、武蔵丸関が優勝しました。

(2024年6月2、5日に作成)


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