(『独白』花田勝著から抜粋)
1997年1月場所で、僕は3度目の優勝をしました。
次の3月場所は綱取りがかかりましたが、3日目の取組でケガをしました。
右足の膝の裏側から太ももをつないでいる筋が切れたのです。
医者から「相撲をとったら筋肉が全部切れて引退です。休場して下さい」と言われました。
結局、この筋肉は今でも切れたままで、完全にはつながらないとのことです。
全治3ヵ月以上と診断され、入院になりました。
スポーツ新聞は「引退か」と報じました。
それを見て、「軽い気持ちでいいかげんなコメントをするマスコミの鼻を明かしてやる。横網になってみせる」と、やる気が出てきました。
これまでは「大関でもいいや」との気持ちがあったのですが、「横綱になって皆を驚かせてやる!」と心が定まりました。
怪我の治療のため、5月場所は全休し、5月下旬から稽古を再開しました。
6月上旬に稽古も元通りにこなせるようになりました。
復帰した7月場所は、大関のカド番として出場しました。
3連敗した時は、マスコミが宿舎に殺到し、「引退するのか」と騒ぎになりました。
おかみさん(母親)は、「8番勝てばいいから」と言ってくれて、ずいぶん気が楽になりました。
結局、8勝7敗でした。
1998年1月場所は、14年間続いた満員御礼がストップし、「相撲人気の低下」が騒がれました。
僕は3月、5月場所で連続優勝し、横綱に昇進しました。
3月場所では、弟の光司(貴乃花)は初日から2連敗し、先場所からは6連敗でした。
5日日から光司は休場しました。
この頃、僕は「光司の目を醒まさせるには、僕が横綱になるしかない!」と覚悟を固めていました。
僕と光司の仲は非常に悪化しており、そこにはある人物の存在がありました。
その人物とは、東京にある鍼灸治療院「筋骨堂」の冨田多四郎氏です。
この人は、「貴乃花を洗脳した整体師」などと呼ばれた人です。
僕と光司は、1989年から、冨田さんに体を診てもらっていました。
所属する藤島部屋の後援会・会長だった佐川急便・社長の渡辺広泰さんの紹介でした。
冨田さんの治療は、何百本も鍼を打つもので、即効性がありました。
しかし僕らの相撲に口を出すようになり、僕は大関になって3~4年経った頃、「相撲にまで口を出されるのは筋が違う」と嫌になりました。
冨田さんの精神論や助言は、僕から見ればデタラメでした。
僕の親方(父、元貴ノ花)について、冨田さんが「大関にしか上がれなかった人で、親方として横綱をつくれるはずがない」と言った時は、なにより腹が立ちました。
僕は冨田さんと縁を切ることにしましたが、親方は「光司が体を診てもらえなくなったら、どうするんだ」と僕に怒りました。
それで光司の所に謝りに言ったら、光司は「冨田先生から離れると、マーちゃん(※兄である若乃花のこと)はどんどん弱くなるよ」と言いました。
この時から僕は変わりました。
「光司はそう思っているのか。じゃあ必ず横綱になってやる。横綱になって光司の目を醒ましてやる。」と考えたのです。
光司は冨田さんの教えにのめり込み、体を大きくしろと言われて、過食を始めました。
その後、僕が連続優勝して横綱昇進が決まると、光司は頭にきていたのでしょう、次のコメントしました。
「自分のことで精一杯です。兄弟とはいっても譲れないものがあります。」
僕が横綱として初めて出た1998年7月場所からは、「兄弟不和」とマスコミに書かれるようになりました。
僕と光司は、相撲観が大きく違いました。
光司は相撲を「道」と捉え、僕は「スポーツ、エンターテイメント」と捉えていました。
光司からすれば、僕の相撲観は「邪道」だったのでしょう。
1998年7月場所は、僕は10勝で、光司は5場所ぶりに優勝でした。
光司はよほど悩んでいたのでしょう、優勝インタビューで、「引退も考えておりました。どんなに努力しても力が出ないので。」と語りました。
それから少しした8月28日に、とんでもない事が起きました。
サンケイスポーツの1面に、「独占激白 貴、若と絶縁」という記事がのったのです。
この記事で光司は、「若乃花の相撲には基本がない。相撲はそんなに甘くない。どうやって横綱の地位を守れるのか。」と語ってました。
僕はそれを読んで、「光司もバカなことをしたな。これでオレが勝ったな。」と思いました。
僕は、相撲の成績は光司に及びませんが、ファンたちは僕を応援するだろうと思ったからです。
それから10日くらいして、今度は親方(父親)の「貴乃花は洗脳されているんです」というインタビューが報じられました。
僕は9年間、冨田さんの治療を受けましたが、もっと早く離れるべきでした。
他の先生たちに体を診てもらうようになると、「冨田さんみたいに5百本も6百本も鍼を打てば、誰だって当たるよ。本当の先生は1本の鍼で治すんだよ。」と言われました。
光司は僕を無視するようになり、僕は「本場所でまた光司と優勝決定戦になったら、思い切り土俵に叩きつけてやる!」と思いました。
そこまでしなければ目を醒まさないと思ったからです。
光司は1998年9月場所で、20回目の優勝をしましたが、その後はなかなか優勝できなくなりました。
1999年1月になると、僕と妻・美恵子のケンカが「離婚か?」と報じられ、大騒動になりました。
いくつかのスポーツ新聞が「離婚会見か」と報じましたが、僕ら夫婦は話し合って和解しました。
1999年3月場所は、横綱は曙関が3場所連続の休場、僕は11日目から休場、光司は12日目から休場となりました。
続く5月場所も、光司は全休、僕は4日目でケガをして、中日から休場しました。
7月場所で僕は全休したため、3場所連続で皆勤できず、「横綱の仕事を果たしていない」と焦りました。
でも周りの人は、「他の横綱はもっと休場してるから、大丈夫だよ」と励ましてくれました。
7月場所では、光司は9日目に左手薬指を骨折し、その影響で9勝で終わりました。
光司はケガが多くなり、優勝もできなくなったので、冨田さんと縁を切りました。
そして「今後は改心して生きていきたいと思います」と語り、親方と和解しました。
これは「和解劇」として、マスコミに大きく報じられました。
でも僕は、この頃になるとケガが重なり、本場所中に相撲のことを考え続ける気力も無くなってきて、自分のことで一杯でした。
1999年9月場所は、光司は薬指が治っておらず、連敗して4日目から休場しました。
僕も10日日にまたケガをしましたが、時津風・理事長の休場勧告を受け入れずに、千秋楽まで取りました。
その結果、7勝8敗の負け越しとなりました。
記者たちからは、「史上2人目の横綱の負け越しですが」と言われました。
後援者の方々も、「いよいよ引退か」と思ったようです。
親方は場所中に、「相撲協会の立場も考えろ。休場して次に備えろ」と言ってました。
でも僕は千秋楽までやって、その結果次第では責任をとろうと思ってました。
僕と親方は、7勝8敗で終わった後、時津風・理事長の許に出向きました。
そして負け越したことを詫びた時、理事長は「進退はお前に任せる」と言いました。
僕は「チャンスを与えて下さったのだ、もう一度やってみよう」と心を決めました。
それで「もう一度やります。よろしくお願いします。」と言った時、涙があふれてきました。
理事長は、「これからはイバラの道だぞ」と言い、にこっと笑いました。
その笑顔を見たとき、「救われた」と思い、とても感謝しました。
翌日に横綱審議委員会に呼び出されて、「来年の3月場所まで休場し、万全の体調にすること」と言い渡されました。
その後、リハビリ生活に入りましたが、一度引退する覚悟で相撲を取っただけに、気力が戻りませんでした。
そして半年休んだ後に、2000年3月場所に出場しましたが、5日目で3敗した時に引退を決め、発表しました。
(2024年6月5日に作成)