タイトルマジック・ジョンソンの回想①
幼少期から学生時代

(『MY LIFE』アービン“マジック”ジョンソン ウィリアム・ノヴァク共著から抜粋)

私は、黒人の父母をもち、父母と7人の子供という、9人の大家族で育った。

住んでいたのはミシガン州ランシングで、デトロイトから車で1時間半の所だ。
私たちの住む西地区は、住民の大半が労働者階級だった。

ランシングは州都で、ゼネラル・モーターズの工場がある都市で、多くの人がGMもしくはその子会社に雇われていた。

ランシングは、白人が住民の大多数を占めていて、黒人は西地区または東地区に住んでいた。

私の父は、GM傘下の工場で働き、酒もタバコもしない真面目な人だった。

父はBBキングやマディ・ウォーターズといった古いブルース・シンガーが好きで、45回転のシングル盤を買って、いつも聴いていた。
LPは高額で買えなかった。

母は、学校の用務員やカフェの店員をしていて、1日働いて帰ると7人の子供の世話をした。
いつも疲労困憊で、表情でもそのことがよく分かった。

父はGM傘下の会社で夜間勤務していて、毎日午後5時から翌朝の午前3時18分までが勤務時間だった。

車の組み立てラインで働き、危険な作業なので、火傷して帰ることもあった。

父は副業もしていて、土曜日にトラックで廃品回収を自営でしていた。

父は自動車が大好きで、いつもビュイックを1台は持ち、2年ごとに乗り換えていた。
オイル交換やワックスがけをしょっちゅうしていた。

父は、少年の頃は、ミシシッピ州の農村で小作人をしていた。
「雨が降らなきゃ学校へも行けなかった」と、よく言っていた。

アメリカの南部は人種差別がひどく、黒人は今でも白人に対して「イエス、サー」、「ノー、サー」と受け答えしないといけない。

私がプロバスケ選手になってからも、南部の年寄りの白人はこの受け答えを私に要求してくる。

私の幼年期は、NBAのテレビ中継は週に1度だけで、日曜の午後のその中継を父は欠かさず見ていた。

私は父と一緒に観戦し、ゲームが終わると外に出て父とバスケの1オン1をプレーした。
父は手かげんせず、色々な技術を教えてくれた。
父との1オン1を通して、私はバスケの駆け引きを覚えた。

父はオールラウンドのプレーヤーを目指すべきと信じていて、あらゆる技術をしっかり身につけろと指導してきた。

デトロイト・ピストンズの試合を観に、父とスタジアムに行ったことも何度もある。

当時はチケットの入手は簡単で、価段も桁ちがいに安かった。
観客のほとんどは黒人だった。

私がプロ入りする頃になると、NBAは黒人のファンがどんどん減っていた。

チームの大半が郊外にスタジアムを移し、チケットの値段も高騰したからだ。

NBAではプレーしなかったが、私が少年時代に憧れたプレーヤーの1人が、マークス・ヘインズだ。

彼は自分のチームを持っていて、ランシングに来るたびに父に連れられて試合を観に行った。

ヘインズほとボールさばきのうまい選手を、私は他に見たことがない。
あれこそ本当のドリブルだった。
フロアから4~5cmしかバウンドさせずにドリブルするのも得意だった。

私は兄と一緒に、小学校の校庭で皆とバスケをして武者修行した。
私の通う学校は9割以上が黒人だった。

私は、白人の新米教師であるグリータ・ダート先生と親しくなった。

ダート先生の夫ジムはバスケ狂で、ミシガン州立大学の試合によく連れて行ってくれた。

ジュニアハイスクール(中学校)に進むと、バスケ・チームに入り、コーチからバスケ技術を教わった。

コーチは各ショット(シュート)を25本連続して放つトレーニングを課した。
私にとって新鮮な経験で、反復の大切さを初めて学んだ。

私の身長は、中学3年生の時に195cmに達した。

私は天才プレーヤーともてはやされたが、ランシング出身のNBAプレーヤーは皆無なので、自分の実力を怪しんでいた。

自宅からたった5ブロックの所にあるセクストン高校は、全生徒が黒人で、バスケの強豪校だった。

私はここに進学したかった。
だが「強制バス通学制度」が始まり、バスに乗ってエヴェレット高校に通うことになった。

「強制バス通学制度」は、人種融合を図るために作られたもので、離れた地区の学校に通う制度である。

エヴェレット高校は白人中心の学校だった。
私がエヴェレットに入学する前年に、兄のラリーとパールが入学したのだが、パールは学校嫌いになり、ラリーは何度も暴力事件に巻き込まれていた。

ラリーはバスケ部に入ったが、コーチと口論してクビになっていた。

私が入学した時も、白人が生徒の大多数で、白人と黒人の交流は無いに等しかった。

エヴェレット高校では、もちろんバスケ部に入った。
だが白人の上級生は私にパスをせず、「お前はリバウンドだけしてればいいんだ」と言った。

私はセクストン高校に転校したかったが、無理だった。
幸い、白人の3年生のランディ・シャムウェイが良い人で、上級生たちを説き伏せて差別を減らしてくれた。

コーチのジョージ・フォックスは、私がガードのポジションが合っていると、初めて見抜いた人だ。
私はチームで一番背が高く、普通ならセンターかフォワードをする。だがフォックスは私の能力を見て、セオリーにとらわれない選択をしてくれた。

私は練習でも、いつも手を抜かなかった。
練習は軽く流して、本番で本気を出すというタイプは、危険だと考えている。
いざという時にスイッチが切れたままになる可能性があるからだ。

高校1年生の時、ジャクソン・パークサイド高校との試合で、36得点、18リバウンド、16アシストを記録した。
私の生涯でもベストゲームの1つだった。

この試合の後、スポーツ記者のフレッド・ステイブリーが、私のことを「マジック」と評して記事にし、そのあだ名はすぐに広まった。

私が2年生になると、それまでの3年生が卒業したことで、チーム内の緊張はぐっと和らいだ。

私たちはセクストン高校にも勝てるようになり、私は同校との試合で54得点した。

このシーズンに、エヴェレット高校は州チャンピオンになった。

バスケ部の1年先輩にレジー・チャスティンがいて、私たちは親友になった。

レジーは、私が自分のバスケの実力に自信を持ってない頃に、私の実力を信じて「NBAに行ける」と言ってくれた人だ。

だがレジーは、大学に進学して少ししたら自動車事故で亡くなってしまった。
死を身近に感じたのはこの時が初めてだった。
同年代の仲間を失ったショックは大きかった。

テリー・ファーローも、私の親友だった。

テリーはミシガン州立大学のバスケチームのスター選手で、私が高1の時に同大学の練習に参加するようになって知り合った。

私は高校時代ずっと、テリーの世話になり、よく1オン1で対戦した。
1オン1を2年続けて、ようやく彼に勝てるようになった。

テリーはいつも取り巻きや美女をはべらせる人で、NBAに入ってプロ選手になったが、麻薬常習者になってしまった。

私がNBAに進んだ後の1980年に、テリーは自動車事故で死亡した。
車内からコカインが発見された。

私は、親友2人が早死するのを救えなかった。
何とか出来なかったかと、今でもしみじみ思う。

あと1人、私が高校時代に大きな影響を受けたのは、ABAでプレイしていたジョージ・ガーウィンである。

彼は後にNBAに行き、5年間に4度もNBAのシーズン最多得点者になるほどの選手で、「アイスマン」の異名を持っていた。

彼はデトロイト出身で、シーズン・オフに私は、彼と1オン1をする機会を得た。
私が学生スター選手なのを知っていて、数週間にわたり相手をしてくれた。

彼は神がかっていて簡単にひねられたが、フィンガーロールとバンクショットなどを伝授してもらった。

私がNBA入りすると、彼と再会し対戦することになった。

私が高校3年生になると、多くの大学がスカウトを送り込んできた。

私は結局、地元のミシガン州立大学を選んだ。
両親も知人も皆がミシガン州立大学に行くことを望んでいた。

大学でのデビュー戦は、最悪の出来だった。ほとんどのショットをミスし、10回以上もターンオーバーを許した。

自分のバスケ人生を振り返ると、一段高いレベルに上がるたびに、初戦では惨めな成績だった。
レイカーズに入団した時も同じだった。

大学に入った最初から、私はスター選手として有名で、多くのファンが試合を観に来た。

私は高校時代からミシガン州立大学の練習に参加していたので、チームメイトたちとはすでに顔見知りで、すぐにチームに溶け込んだ。

大学のバスケの特徴は、肉弾戦に近いことで、審判も少々の体当たりやラフプレーは大目に見る。
それに慣れるのに一年近くかかった。

アイオワ大学のロニー・レスターのプレーには驚いた。
彼は史上最高レベルのガードで、膝を痛めなければNBAでも名を成したはずだ。
ロニーはNBAに進んだが、往年のプレーは出来なくなっていた。

ミシガン州立大学のヘッドコーチのジャッド・ヒースコートは、私とは相性が良く、私の技量を進歩させてくれた。

ジャッドは私をポイントガードの司令塔にし、「パスを味方が受け損ねたら、それは君に責任がある」と言った。

「そんなバカな」、と私は思った。
私のナイスパスを味方が取れないことが、よくあったからだ。

だがジャッドは、「チームメイトがどんなパスに対処できるか、各人がどんなパスを最も有効に生かせるかを、君は学ぶべきだ」と言う。

「各プレイヤーの特徴を頭に入れろ」と、ジャッドは私を鍛え上げた。
この教えは、レイカーズに入ってからも役立った。

面白いことに、ジャッドと本当に親しくなったのは、私がレイカーズに入団してからだ。

レイカーズに入団してから数年間、私たちはよく電話で話し合い、彼は私のプレイを批評し、様々なアドバイスをくれた。

大学時代には、後に妻となるアーリーサ・ケリーとも出会った。

ミシガン州立大学での最初のシーズンは、25勝5敗だった。

グレッグ・ケルサーと私のコンビがチームの強みで、私がパスしてケルサーが得点していた。
だが全米チャンピオンにはなれず、ベスト8止まりだった。

大学2年目に入ると、私はプロに転向する事を考え始めた。
すでに1年目のシーズン終了後に、キングスから誘いを受けていた。

2年目のシーズンは、途中でチームは不調となった。
原因は、コーチのジャッドがハーフコート・ゲームを我々にさせて、攻撃が遅くなったからだった。

我々選手たちは、ジャッドに「このチームの持ち味は速攻だ」と説いた。
ジャッドは忠告を聞き、戦術を元の速攻に戻した。

ミシガン州立大学は決勝まで進んだが、相手はインディアナ州立大学で、そこにはラリー・バードがいた。

バードのプレイは、準決勝の試合で初めて見たが、彼は35得点、16リバウンド、9アシストの大活躍だった。
私が感銘を受けたのは、彼のチームを勝たせようとする強固な意志だった。

決勝戦では、我々はラリー・バードに常にディフェンスを二人付けてマークした。
バードはシュート21本のうち7本しか決められず、75-64で私たちが勝った。

私たちは全米チャンピオンになったのだ!

私たちが大喜びする中で、ラリー・バードはベンチに腰を落として泣いていた。
その気持ちは痛いほど分かった。ひとつ間違えば泣くのは私のほうだったのだ。

私は大学生活を2年でやめて、NBAに行くことにした。

ラリー・バードも、ボストン・セルティックス行きを表明した。

私をドラフトで1位指名するチームは、シカゴ・ブルズかロサンゼルス・レイカーズだった。

もしプルズに指名されたら、ミシガン州立大学に残るつもりだった。
当時のブルズは優勝を狙えるチームではなかったからだ。

レイカーズは、私を指名するのを迷っていた。
「大男は優秀なポイントガードになれない」というのが常識だったし、レイカーズにはすでにノーム・ニクソンという良いポイントガードがいたからだ。

レイカーズが私を指名したのは、チームを買収しようとしていた不動産業者ジェリー・バスの尽力だった。

バスはオーナーになるに際し、私が観客動員の救世主になると見込んだのだ。

私が入団した1979年に、ジェリー・バスは6750万ドルでロサンゼルス・レイカーズ、NHLのロサンゼルス・キングス、そのスタジアムをまとめて買収した。

私はレイカーズとの交渉で、年棒60万ドルの5年契約を要求した。
レイカーズでは、カリーム・アブドゥル・ジャバーでも年棒は65万ドルだった。

私は「年棒50万ドル以下ならば大学に残る」と伝え、レイカーズは年棒50万ドルを受け入れた。
これはNBA史上でもルーキーの最高年棒だった。

だが1ヵ月後にラリー・バードがセルティックスと年棒60万ドルで契約し、記録はあっさりと更新された。

(2024年12月29日に作成)


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