タイトルマジック・ジョンソンの回想②
レイカーズ1年目、カリーム・アブドゥル・ジャバー

(『MY LIFE』アービン“マジック”ジョンソン ウィリアム・ノヴァク共著から抜粋)

私は、1979年夏にロサンゼルス・レイカーズに入団した。
背番号は高校時代と同じ32番になった。

レイカーズは、1972年にチャンピオンになってから、一度もチャンピオンになっていなかった。

レイカーズのベテラン選手たちは、ルーキーの私に目をかけてくれなかった。
ルーキーのほとんどが使いものにならず、そのうちクビになると知っていたからだ。

私は生まれて初めて故郷を離れ、大都会で暮らすことになったが、生活費の高さに度肝を抜かれた。

ロサンゼルスの街に圧倒され、最初の1年は、練習場、スタジアム、遠征時に使う空港の3ヵ所以外はどこへも足を運ばなかった。

レイカーズを買収してオーナーになったジェリー・バスは、離婚しており、ロスの美女たちと付き合っていた。
私は彼に付き合ってラスベガスにも何度か行った。

ジェリー・バスはビジネスマンなので、レイカーズのチケットの値上げをし、最前列は500ドルまで上がっていった。
だが一番安い席は8.5ドルに抑えていた。

私がレイカーズの合宿に加わって驚いたのは、選手たちのクールさだった。
全力で練習する私に皆が呆れていた。

プロ選手の多くは、シーズン前は力を温存する。
当時のレイカーズは、はつらつさは全くなかった。

NBAの1979-80シーズンが始まると、私はスタメンで出場した。

初戦では、終了間際にカリーム・アブドゥル・ジャバーのスカイフックが決まり勝利した。
私は興奮のあまり彼に抱きついたが、カリームは冷静そのもので、「落ちつけよ、まだ81試合も残ってるんだぞ」と言った。

だか私は元気一杯の自分のスタイルを変えるつもりはなく、チームメイトもそのうち慣れてくると考えた。

NBAの試合は正に肉弾戦で、慣れるのは大変だった。

NBAはマンツーマン・ディフェンスで、大学のゾーン・ディフェンスよりも1オン1が多い。
私は点取り屋たちとマッチアップしてディフェンスすることになり、苦闘した。

だが徐々に止める術を会得した。
スクリーン・プレーを見抜く方法や、相手に利き腕と逆の腕を使わせる動き、などである。

ディフェンスの秘訣は、チームメイトのマイケル・クーパーが伝授してくれた。
彼は私より1年入団が早く、チーム内で一番仲良くなった。

彼は守備のスペシャリストで、マークする相手を封じ込める役割をしていた。
それだけでなく、スリーポイントの練習を重ねて、リーグ屈指のシューターに成長していった。

NBA選手が身に付けねばならない事に、昼寝がある。

試合が終わった夜は、興奮ですぐには寝つけず、夜更かしすることになる。

翌朝は練習か、バス移動だから、昼寝をしないともたない。

NBAのシーズンの長さも、試練の1つだ。
82試合もあり、さらにプレーオフもある。

大学リーグは年に30試合くらいだから、大学ならフルシーズンの試合をこなしても、NBAだと折り返し点にも達していない。

ルーキー選手には、先輩選手の雑用をさせられる苦しさもある。

このシーズンは、大学時代にチームメイトだったグレッグ・ケルサーの加入したデトロイト・ピストンズは16勝66敗で、勝率は2割に満たなかった。

レイカーズはプレーオフでも勝ち上がり、セブンティーシクサーズとNBAファイナルで戦うことになった。

カリームはいつも、プレーオフで最高の力を発揮してきたし、このファイナルでも5試合で平均33得点した。

しかしカリームは、5試合目で膝をひねり、第6戦は欠場した。

第6戦では、私が代わりにセンターでプレイする事になった。
大黒柱が抜けてしまい、敵地だったのもあり、誰もがレイカーズのボロ負けを想像した。

この時点でレイカーズは3勝2敗だったが、私は一人「今夜で決めてやる」と決意した。

レイカーズは、カリームがいなければハーフコート・ゲームができないので、フルコートの速いバスケをしようと決めていた。

試合が始まると、セブンティーシクサーズはカリームの不在でかえってまごつき、こちらを適切にマークできなかった。

最終スコアは123対107となり、レイカーズは1972年以来でチャンピオンとなった。

私は42得点、15リバウンド、7アシストの大活躍。
ジャマール・ウィルクスも37得点、マイケル・クーパーは16得点、ノーム・ニクソンは 9アシストだった。

ジム・チョーンズは、ダーレル・ドーキンズとマッチアップし、ドーキンズを14得点4リバウンドに抑えた。

レイカーズの優勝シーンを、ほとんどのファンが深夜放送まで見られなかった事は、今から考えると驚くしかない。
ゴールデンアワーには放送されなかった。

レイカーズでチームメイトになったカリーム・アブドゥル・ジャバーは、私が子供の頃から生きる伝説だった。

だから彼のチームメイトになれたことに、私は特別な思いがあった。

ところが私がレイカーズに入ってから5年間、ほとんど口をきいてくれなかった。

カリームは、とても知的で、ミステリアスな人だった。
彼のことを「別の惑星から来た人」と呼ぶチームメイトさえいた。

私は音楽はP-ファンクみたいなファンク・グループを聴いていたが、カリームはジャズ・ファンで、私の流す音楽にいつも顔をしかめていた。

私は入団1年目はカリームの付き人になったが、いつも空港で牛肉のみのホットドッグとトルティーヤを買いに行かされた。
彼はイスラム教徒なので、豚肉が禁じられていた。

カリームが決して笑わない事は、入団してすぐにチームメイトから聞かされた。

彼は多くのスーパースターと違い、静かな人だった。
彼はいつも無表情で、私と対照的だった。

だがコート上のカリームは、本気を出した時は無敵だった。

必殺のフックシュートだけでなく、ブロックショットとリバウンドもすごい。

私と組んだことで、彼の選手寿命が伸びたのは間違いない。
ロー・ポストに立って私のパスを受け、イージーショットを決めるだけでよくなったからだ。

カリームのほうも、私の負担を軽くしてくれた。
カリームにはいつも2人がマークに付くので、こちらにスリーポイント・シュートのチャンスが出来る。

カリームはパスの名人でもあった。

私がレイカーズに入って5年たった1984年の夏、ついに彼はプライベートでも私を受け入れてくれた。

この時の私は、セルティックスとのNBAファイナルでまずいプレーをし、優勝を逃したことでマスコミから袋叩きにあっていた。

驚くことにカリームは電話してきて、自宅に招待してくれた。
そこでよもやま話をし、関係は一変した。

カリームに息子が生まれた時、彼は赤ん坊をロッカールームに連れてきた。
こんなに嬉しそうな顔は初めて見た。

カリームは、ゲームに集中するための独特のやり方を身に付けていた。

選手の多くはロッカールームでは、音楽を聴いたり対戦相手のビデオを見る。
だが彼はいつも本を読んでいた。歴史書から小説まで幅広かった。

彼は自伝も2冊書いている。

彼は、ゲーム前は誰が話しかけても知らぬ顔で、自分の世界に没入していた。

私がゲーム前にマスコミのインタビューに応じた時、彼に叱られた。

「心の準備には時間がかかる。ゲーム直前までマスコミ連中と話していたら、集中できなくなるぞ」と。

私はすぐに改めた。

カリームはバスケ一筋の人ではなく、文学、音楽、政治、宗教などにも興味を持っていて、バスケのことを家に持ち帰らなかった。

カリームは1983年初めに家が全焼し、写真アルバムやジャズレコードのコレクションを全て失った。

だが彼はその苦痛をコート上に持ち込まず、プレーは全く変わらなかった。

数年後にビジネス・マネージャーとのトラブルで破産同然になった時も、さほどの怒りも恨みも表明しなかった。

面倒臭がって稼いだカネのチェックをしない選手は、よく同じ目にあう。

カリームの最大の武器「スカイフック」は、大学時代に毎日数百投のシュート練習をして身に付けたものだ。

彼が長くプレーできた理由の1つはこのシュートで、スカイフックを使えば接触プレーを避けられる。

彼は自分に付く2人の選手をかわせる敏捷さを備えていた。

私はスカイフックを伝授してもらったが、「コツはどんな場合も同じリリースとフォロースルーを心がけることだ」と言っていた。

カリームはレイカーズ時代に、生涯唯一のスリーポイント・シュートを決めた。

その瞬間に彼は少年に返り、顔をしわくちゃにして叫び、両手を突き上げた。

チームメイトが見たがっている子供っぽい彼がそこにあり、私たちも総立ちで踊った。

カリームには、いたずら好きの側面があった。

チームメイトの誰かの靴やバッグを隠すとか、下着を取り替えるとかだ。

ブラッド・ホーランドがレイカーズに入団したシーズン、練習中に彼の奥さんのパンティがコートに落ちた。
彼のスウェットパンツに絡まっていたらしい。

見つけたカリームは目の色を変え、それを取ると覆面のように頭からかぶって練習を続けた。

ブラッドは両手で顔を隠していたが、カリームは「いい匂いだぞ、ブラッド」とからかいながら、5分もそのまま練習をしていた。

カリームは、チームメイトが座ってのんびり新聞を読んでいる時に、新聞紙に鋭い空手チョップをするのも得意だった。

これはマイケル・クーパーやバイロン・スコットの十八番でもあり、空港でバスを待ちながら新聞を読んでいる時によくやられた。

カリームがチームに居たことで、私は持つ力をやや抑えながらプレーしていた。

しかし1986年のプレーオフで、レイカーズはロケッツに1勝したあと4連敗で敗退した。

ロケッツのツインタワーである、ラルフ・サンプソンとアキーム・オラジュワンに、カリームは手も足も出なかった。

レイカーズの攻撃が読まれていると悟った、ヘッド・コーチのパット・ライリーは、私に「もっと得点してくれ」と言った。

それまでの私は、他の選手にボールを回すのを優先していた。

カリームとジェームズ・ウォージーは、この戦術変更に賛成してくれた。
カリームは、私にわざわざ「すべてお前に任せたよ」と言いに来てくれた。

それで次の1986-87シーズンは、私のシュート数が増え、ゴール下へドリブルする回数も多くなった。

このシーズンは、私のプロ生活で最良の年となり、1試合平均得点は24と、前年より5も増えた。
それだけでなく、アシスト、リバウンド、スティール、ブロックショットも増えた。

一方でカリームも、プレッシャーが減った分、ゲームを楽しみ始めた。

レイカーズの攻撃は相手に読まれにくくなり、NBAファイナルでセルティックスを4勝2敗で破り優勝した。

私はこのシーズンのMVPを受賞した。

カリームは絶頂期を過ぎてからも、チームの大黒柱だった。

引退まぎわの1988-89シーズンは、スタメンから落ちていたが、それでも彼抜きでは優勝できなかった。

カリームは現役最後の5シーズンに、3度のチャンピオンにレイカーズを導いた。

力を温存しておき、プレーオフにエンジン全開にする手並みは天才的だった。

1984年の春にカリームは、ウィルト・チェンバレンが持っていた通算3万1419得点というNBA記録を越えた。

その試合の後、チーム全員で祝賀パーティにくり出したが、カリームはいつものようにホテルに残った。

(2024年12月29~31日に作成)


BACK【スポーツ】 目次に戻る

目次【サッカー】 目次に行く

home【サイトのトップページ】に行く