(『MY LIFE』アービン“マジック”ジョンソン ウィリアム・ノヴァク共著から抜粋)
ロサンゼルス・レイカーズは、私のルーキー・シーズン(1979-80シーズン)の途中で、ヘッドコーチがポール・ウェストヘッドに交代した。
ウェストヘッドは、ラジオとテレビで解説者をしていたパット・ライリーを、アシスタントコーチに起用した。
ちなみにウェストヘッドは、元はシェークスピア専門の英語教授である。
だから難解な話を選手にすることがあった。
1980年の夏、私が付き合っていたメリッサ・ミッチェルが、「妊娠した」と告げた。
その後に男の子が生まれたが、私たちは結婚しなかった。
私はまだ21歳で父親になる気はなかった。
私のレイカーズでの2年目のシーズン(1980-81シーズン)は、最悪だった。
シーズンが始まると、11月の試合中に左膝を負傷した。
軟骨の裂傷と診断され、手術になった。
手術後は、立ち上がるだけで汗びっしょりになった。
リハビリのトレーニングは辛いものばかりで、気持ちはすっかり落ち込み、やる気も湧いてこなかった。
NBAでプレーしている時は、分刻みでスケジュール管理されていたが、この時期は暇をもてあます毎日となり、やれることはウェイト・トレーニングくらいだった。
NBA2年目は、負傷するまでは1試合平均21.4得点と好調だった。
その状態に戻れるのか不安になり、ケガをくり返すことになるのではと心配だった。
やがて自分で自分が哀れになってきた。
この経験により、私は自分が不死身ではないと悟った。
バスケ練習が許可されると、猛特訓を開始した。
結局このシーズンは、45試合休んでから復帰した。
私のいない間、ノーム・ニクソンがポイントガードをして、レイカーズは好調だった。
私が戻ると、ノームは脇役に追いやられたので、腑に落ちない様子だった。
私は復帰したものの、膝を守ることに気を取られて、控えめなプレーが続いた。
それもあり、プレーオフに入るとロケッツに敗れた。
ロケッツはモーゼス・マローンの全盛期で、レイカーズのカリーム・アブドゥル・ジャバーでさえ手も足も出なかった。
ロケッツはNBAファイナルまで進み、セルティックスに負けた。
プレーオフに入ってから、私とノーム・ニクソンは新聞紙上で口論をした。
お互いに記者に不満をぶちまけ、それが新聞に載ったのである。
シーズン終了後に、オーナーのジェリー・バスの仲介でノームと仲直りはした。
だが2年後にノームが移籍するまで、円滑な関係からはほど遠かった。
私のNBA3年目となる1981-82シーズンは、開幕直前の合宿で、ウェストヘッドはレイカーズの戦術を変えた。
それまでの速攻から、ハーフコート・オフェンスに変えて、カリームを中心に攻撃を組み立てたのだ。
だが攻撃が単調になり、開幕から6試合で4敗した。
私は新戦術が嫌で、11月15日の試合で我慢の限界に達した。
ウェストヘッドに「別のチームに移籍させてくれ」と言い、チームメイトにも「これでお別れだ、オーナーにトレードを頼んでくる」と告げた。
すると、すぐにオーナーはウェストヘッドをクビにした。
アメリカ中のバスケファンが、クビにさせたのは私だと思ったようだ。
だが私は、遅攻だと楽しめず、トレードを希望しただけだ。
直後に、パット・ライリーがヘッドコーチに就いた。
私は、我儘を言って監督を辞めさせたと見られ、ファンからブーイングを浴びるようになった。
ファンたちは、オーナーのジェリー・バスも批判した。
私ががっかりしたのは、チームメイトが私を守ってくれなかったことだ。
ウェストヘッドのやり方に皆が文句を言っていたから、私はチーム全体の考えを代弁したつもりだった。
ところがいざとなると、チームメイトたちはだんまりを決め込んでしまった。
パット・ライリーは、レイカーズのオフェンスを元に戻した。
そして私たちはNBAファイナルでセブンティーシクサーズを4勝2敗で破り、チャンピオンになった。
ミッチ・カプチャックは、1981年夏に自由契約選手としてレイカーズに加入した。
ところが同年12月に重傷を負い、ほぼ2年間ゲームから遠ざかった。
カプチャックの穴を埋めるため、ボブ・マッカドゥーがシーズン途中で加入した。
ボブ・マッカドゥーは、1972年にブレイブスでプロ生活を始めたスーパースターで、 MVPになった事もあるし、ブレイブス時代に3年連続で得点王になっていた。
マッカドゥーは、人柄もすばらしく、愉快な人だった。
彼はとにかく負けず嫌いで、よく練習後に「カネを賭けたシュート合戦をしよう」と皆を誘った。
彼はロングシュートが上手く、毎日のように私たちはカネを巻き上げられた。
ある日、バスの移動中にマッカドゥーは、「バスケだけでなくスポーツなら何でもこいさ」と自慢した。
彼は自慢話が大好きだった。
ところが誰かが「ボウリングは?」と訊くと、マッカドゥーは「ボウリングはやらないんだ」と答えた。
彼の大口叩きを知るチームメイトたちは、口をそろえて叫んだ。
「ボウリングはやらない?」
皆がしばらく笑いころげていると、彼は言った。
「ただし1週間くれれば、300は出してみせる」
ある時、バスに乗り合わせた記者が「卓球でマッカドゥーに勝った」と話した。
車内は大騒ぎとなり、皆が彼をからかった。
「マッカドゥーに勝った!? まさか、嘘に決まってる。
史上最強のピンポン選手が負けるわけないだろ?
どうして黙ってるんだい?
この人、あんたに勝ったって言ってるよ、なにかの間違いだろ?」
マッカドゥーは雪辱を誓い、1年も練習に励み、その記者にリターン・マッチで勝った。
彼が今もその勝利話に花を咲かせていても、私は驚かない。
マッカドゥーは、しょっちゅうケガを申告して試合を休んでいた。
ある時など「手首の風邪をこじらせた」と言ってのけた。
だがマッカドゥーは、別の面も持っていた。
黒人意識をチームメイトの中で最も強く持っていた。
彼が若い頃は、まだ人種隔離政策が残っていて、その体験をよく話してくれた。
マッカドゥーのおかげで、白人選手のほうが黒人選手よりも高い年棒をもらっていると知った。
それに黒人選手の方が優れていても、多くのNBAチームは白人ファンを喜ばせるために、何人かの白人選手をベンチ入りさせていた。
マッカドゥーは口癖のように「物事はひとりでに変わりはしない」と説き、こう話した。
「黒人選手は、ビル・ラッセルやウィルト・チェンバレンが道を切り開いたから、その次の世代の私やジュリアス・アーヴィングが伸びていけた。
そして私たちがいたから、今の君たちがいるんだ。
だが闘いは終わってない。もう一歩先に進み、コーチや経営陣にももっと黒人が欲しい。
君は黒人プレイヤーのリーダーになれる。
他の連中みたいにカネをドブに捨てるような真似はするなよ。」
マッカドゥーは1986年にイタリアへ渡り、そこでプレーを続けた。
今でも私にとって特別な友人である。
私がペプシコーラの販売会社を買収した時、彼は大喜びで祝いの電話をかけてきた。
黒人と白人の間に友情が築かれるのが、NBAのすばらしさの1つだ。
とはいえ親友となると、たいていは同じ人種同士に限られていた。
1980年代のレイカーズは常勝チームだったが、控えの選手が自分の役割を受け入れていたのも大きかった。
控え選手たちは皆、学生時代はスタープレイヤーだったから、イラ立ちがあったはずだ。
ウェス・マシューズは、控え選手の鑑で、つねに全力で練習し、試合中に声援を送り続けた。
控え選手が不平ばかり言うと、その態度は周りに感染していく。
だからレイカーズは、選手をとる際に人柄も見ていた。
レイカーズは、1982年夏にジェームズ・ウォージーが入団した。
翌83年はノーム・ ニクソンがトレードに出され、バイロン・スコットが入団した。
ジェームズ・ウォージーは、レイカーズでなければスーパースターになっていた選手だ。
彼は口数が少なく、自分の殻に閉じ込もっている人だから、私やカリームの陰に隠れている方が良かったのだと思う。
レイカーズの速攻は、ジェームズ抜きでは不可能だった。彼はスピードが格段に速かった。
彼はバスケ界でも屈指のドロップステップを身に付けていて、ダンクも得意だった。
マイケル・ジョーダンが登場する前は、空中戦といえばジェームズの独壇場だった。
ジェームズ・ウォージーは、ジャマール・ウィルクスに代わってスタメンになった。
1984-85シーズンのNBAファイナルは、ジェームズが6試合で142得点し、シュート成功率は60%だった。
しかしMVPはカリームに贈られた。ジェームズはいつも損な役回りだった。
ジェームズの父は教会の牧師で、ジェームズは酒を飲まず、遊び歩くこともしない人だった。
だから彼は、最後までロサンゼルスになじめなかった。
1983年夏にバイロン・スコットが入団してくると、共に独身のバイロンと私は、よく遠征先でナイトクラブに出かけた。
バイロンはロサンゼルス出身で、子供の頃からレイカーズの試合を見ていた。
カート・ランビスは、1試合平均得点は8点に満たないが、リバウンドと身体をはるプレイで活躍した。
たいていの選手は自分を過大評価してスターになりたがるが、カートは違った。
彼は1981年秋にレイカーズに入団したが、シュートは下手で、動きは犀のように鈍かった。
だが同年12月にミッチ・カプチャックが負傷したので、彼に出番が来た。
(2025年1月2日に作成)