(『MY LIFE』アービン“マジック”ジョンソン ウィリアム・ノヴァク共著から抜粋)
パット・ライリーは、ロサンゼルス・レイカーズのヘッドコーチ(監督)をつとめた9シーズンで、7度もNBAファイナルに進み、4度チャンピオンになった。
しかし彼は、「レイカーズには優秀な選手が揃っているからチャンピオンになれるんだ」と見られて、過小評価されていた。
ちなみにライリーは、選手時代は8年間NBAでプレーしている。
ライリーは、情熱と勤勉さを持つコーチで、鬼コーチだった。
どれだけ優れた選手が集まっていても、激しいトレーニングを積まなければ、9年で7回もファイナルまで勝ち進めない。
彼はチーム内の練習試合で、実際の試合よりも激しいプレーを要求した。
ゲームのある日は練習も軽かったが、そうでなければ午前中に全力を出す練習試合が行われた。
練習があまりにきついので、試合でほっとすることもしばしばだった。
練習をほどほどにして、試合で全力を出すというチームが多いが、ライリーの考えは違った。
練習試合がきついので、ほとんどの選手は終わると昼寝をして回復につとめていた。
レイカーズの「ショー・タイム」は、良い守備から生まれていた。
私たちのバスケは、「攻撃にばかり集中している」と評されていたが、それはたわごとで、速攻で得点するには良い守備が必要なのだ。
ライリーは速攻をもっと速くできると考えて、ランニング・コーチを招いた。
走る際の効果的な腕の使い方は参考になった。
レイカーズのショー・タイムをあそこまで磨き上げたのはライリーだ。
パット・ライリー監督は、夏のシーズンオフになると、選手たちに長い手紙を書いた。
そこには前シーズンの感想と、来シーズンに期待することが書いてあり、最後に必ず「体調を万全に仕上げてトレーニングキャンプに来てほしい」とあった。
ライリーの期待に背いた選手は、チームから放出されていった。
ライリーに言われて、私はアウトサイド・シュートの精度を上げる練習に取り組んだ。
さらにフリースローの練習もさせられたが、フリースローは精神力が大きくものをいう。
私はプロ入りから5年間は、フリースローは78.8%の成功率だった。
それで改善のため練習に力を入れ、90%台を目指した。
1988-89シーズンは、ラリー・バードがケガで休んだのもあり、私が91.1%の成功率でNBA1位になった。
翌シーズンはラリー・バードが93%で、4度目のNBA1位となった。
プレーオフが近づくと、ライリーは選手たちにいつもこう言った。
「友達や家族に、私を放っておいてくれと伝えろ。
プレーオフ中はいないものと思ってもらえ。全神経をプレーオフに集中しろ。」
プレーオフ中は、妻や恋人が遠征に同行するのも禁じられた。
だがマイケル・クーパーとバイロン・スコットは、妻を別のホテルに呼んで、深夜に隠れて密会していた。
1986-87シーズンにレイカーズが優勝した時、最終試合の直後にライリーは「来シーズンも優勝すると私が保証する」と記者に語った。
それで連続優勝が公約になってしまった。
だが当時のチームは、レイカーズ史上でも最強だったし、私たちはそれを目標に定めた。
ところが1987-88シーズンのプレーオフは、レイカーズは第7戦まで持ちこまれることが多く、優勝はしたが、優勝するまでに21試合も要した。
最後の試合が終った時、カリーム・アブドゥル・ジャバーは、ライリーにタオルで猿ぐつわをはめた。
スリーピート(3連覇)を公約させないために。
ライリーは、ビデオ編集が上手くて、相手チームごとにビデオを作り、それを配って選手たちに研究させていた。
レイカーズの選手のミス・プレーを集めたビデオもあり、チームの調子が悪いとそれを見せられ、彼が説教してくる。
好プレーを集めたビデオもあり、それを見せることもあった。
最後の頃になると、ライリーの指導が飽きられて、効き目が無くなった。
それで1989-90シーズンのプレーオフ第2ラウンドでサンズに負けた時、ライリーは辞任した。
ライリーはテレビ解説者を1年した後、ニューヨーク・ニックスのヘッドコーチに就任した。
(2025年1月3日に作成)