シーア派の少数派②
イスマーイール派(七イマーム派)

(『誰にでもわかる中東』小山茂樹著から)

十二イマーム派は、第7代イマームを、ムーサ・カーザムとする。

それに対しイスマーイール派(七イマーム派)は、「第7代は、ムーサの兄イスマーイールだ」とする。

イスマーイール派は、10世紀に北アフリカで権力を握り、その一派はエジプトで「ファーティマ朝」(973~1171年)を興した。

イスマーイール派は、ファーティマ朝の衰退と共に、「ムスターリー派」と「ニザーリー派」に分裂した。

前者はイエメンに本拠を移し、インドでは今日でも力を持っているという。

後者は政治的テロ集団となり、エルブルズ山中とシリア山中の城砦を拠点にして、「アサシン」と呼ばれる暗殺団を送り出し、イスラム世界を震撼させた。

ニザーリー派は、今日では各地に散在し、総数は25万人と言われている。

(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)

ファーティマ王朝は、909年にチュニジアで生まれ、エジプトを支配した。

ファーティマ朝の創始者は、イスマーイール派のサイード・イブン・フセインだった。
ファーティマ朝によって、イスマーイール派は広まった。

ファーティマ朝は、クルド人の英雄サラディンによって、1171年に廃絶された。
かくして、シーア派はエジプトに根付くことなく消滅した。

(『シリア・レバノンを知るための64章』から)

イスマーイール派は、シーア派の一分派である。

シーア派は、イマームの継承や教義をめぐって何度も分裂をした。

イスマーイール派は、イマームであるジャアファル・サーディクが765年に亡くなった際に、その子のイスマーイールを支持した集団が元祖である。

彼らは、預言者ムハンマドのいとこだったアリーとその子孫に指導権を認め、彼らを絶対の権威と見なした。
(これがシーア派の特徴である)

さらに、『人類史には7つの周期があり、それぞれの周期の最後のイマームが、次の周期の告知者になる』と考える。

そして、「告知者ムハンマドによって開始された6番目の周期は、最後のイマームが救世主として終わらせ、人類史を完成させる」とする。

899年に、メシア主義のイスラム運動を指導していたアブドゥッラーは、「自分は救世主の子孫で、イマームだ」と宣言した。

(アブドゥッラーはイスマーイール派だった)

彼を支持する勢力は、909年にチュニジアで『ファーティマ朝』を樹立した。

ファーティマ朝は、アッバース朝の権威を否定し、969年にエジプトを征服して大王朝となった。

イスマーイール派は1094年に、イマームの継承を巡って内紛をし、「ムスタアリー派」と反ファーティマ朝の「ニザール派」に分裂した。

ニザール派の指導者ハサネ・サッハーブは、イランのアラムート要塞を拠点とし、暗殺を通じて勢力を拡大した。

シリアのニザール派は、アラムートの指揮下に置かれたが、独自のスタンスを固守した。

彼らの指導者スィナーン(1192年に没)は、マスヤーフ要塞を拠点にして、サラディンや十字軍と対抗した。

スィナーンが1192年にエルサレム王を暗殺すると、彼の名は西ヨーロッパにも知られ、マルコ・ポーロの暗殺者教団の伝説における「山の老人」のモデルになった。

1256年にモンゴル帝国軍の攻撃で、アラムート要塞は陥落した。

ニザール派は弱体化し、脅威でなくなったためマムルーク朝は寛容な態度をとった。

オスマン・トルコ朝の時期のニザール派は、アラウィー派とたびたび衝突をした。

土地などを巡って争い、徐々にアラウィー派が圧倒していった。

近年は、ニザール派の指導部の中枢は、ホージャーと呼ばれるヒンドゥー教から改宗した南アジアの人々である。

ホージャーたちは改革を行い、多くの聖者廟が取り壊され、伝統的な指導者層のシャイフもほとんど居なくなった。

新しい指導者層は、ロンドンのイスマーイール派研究所などで作成されたプログラムで教育された者達である。


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