シーア派の少数派③ アラウィー派(ヌサイリー派)

(『誰にでもわかる中東』小山茂樹著から)

アラウィー派は、イスマーイール派の分派と見なされており、極度にアリーを神格化する。

東方キリスト教から、多くの儀式を取り入れた。

今日では、北西シリアのラタキア背後の山岳地に住む。

シリアで政権を長く握っているアサド家(アサド大統領)は、アラウィー派の出身で、同政権はこの派の出身者で固められている。

この派は、「ヌサイリー派」とも呼ばれる。

(『シリア・レバノンを知るための64章』から)

アラウィー派は、シリアの人口の12%を占めている。

20世紀後半になると、(同派の政権が誕生し)シリアでは支配階層となった。

1971年以降のシリアで大統領職を独占してきたアサド親子は、この宗派の出身である。

シリアでは、ラタキアを中心とする地中海の沿岸部の山岳地帯に住んでいる。

規模は小さいが、レバノンとトルコにも信者はいる。

トルコに多数居住する「アレヴィー」は、同じようにアリーを尊崇するが、まったく別系統の宗派である。

アラウィー派は、前近代には「ヌサイリー派(ヌサイル派)」と呼ばれていた。

この名称は、シーア派イマームのハサン・アスカリー(873~4年に没)の側近であったとされる、ムハンマド・イブン・ヌサイルに由来する。

アラウィー派には、シンクレティズム(諸教の混淆)の傾向が顕著で、イスラム教だけではなく、キリスト教・サービア教・古代グノーシス主義・イラン文化などの影響がある。

この特徴により、他のイスラム宗派から疑念を持たれ、イスラムの一宗派なのか独立した宗派なのか昔から議論があった。

厳格なスンナ派信者から見れば容認できるものではなく、イブン・タイミーヤは彼らを激しく糾弾している。

現代のスンナ派でも、彼らのイスラーム性を認めない者は多い。

シーア派の十二イマーム派との同質性が指摘される事が多いが、それは同系のイマームを支持しているためである。

歴史と教義に注目すれば、十二イマーム派とは全く異なるが、シーア派の分派である事は間違いない。

アラウィー派は、シーア派の中でもイラクのグラート(極端派)の思想を受け継いでおり、現代まで生き延びた数少ないグラート集団の1つと言えます。

グラートと呼ばれる理由は、「イマームの神格化」「輪廻転生の思想」「イスラム法の廃棄」などのためである。

十二イマーム派やイスマーイール派は、宗派拡大の過程でこうした教義を排除していったが、アラウィー派はよく留めている。

現在のアラウィー派の原型をつくったのは、シリアのアラウィー山地にいたフサイン・ハスィービー(956年か969年に没)だと考えられている。

アラウィー派の思想は、ドルーズ派と比較すると分かりやすい。

ただし、ドルーズ派の『英知の書簡集』のような絶対的な聖典がアラウィー派にはない。

ドルーズ派はファーティマ朝のイマーム(カリフ)だったハーキムを神として崇拝する。

一方アラウィー派は、マアナー(意味)・イスム(名)・バーブ(門)という3つの位格として神が地上に顕現すると考える。

預言者ムハンマドの時代においては、マアナーがアリー、イスムがムハンマド、バーブが教友のサルマーン・ファーリスィーであったとし、「最高の位格マアナーであったアリーは、ムハンマドに優越する」と主張する。

ドルーズ派は「信徒は信徒にしか転生しない」とするが、アラウィー派は「悪行をした信徒は人間以外のものにも転生しうる」と信じている。

アラウィー派の宇宙論は、こうである。

「神の近くにあったアラウィー信徒の光り輝く霊魂は、
 神への疑念と反逆により地上に投げ落とされた。

 信徒たちは肉体という牢獄に幽閉され、輪廻転生を
 余儀なくされた。

 神が何度も地上に現れるのは、再び神に服従することで
 天上界に復帰するように信徒を促すためであり、信徒は
 マアナーを知ることで輪廻転生を抜け出し天に到達できる。」

この教義は外部への漏洩が禁じられ、男性信徒のみに段階的に開示されてきた。

また他のシーア派系と同じく、不利益を蒙ることが予想される場合には「タキーヤ(信仰の偽装)」を行ってもよいとされている。

ハスィービーの時代には布教活動が活発だったが、11世紀には信徒の地域は固定化され、支持層は都市部の知識人から農民に変わっていった。

中心が山岳地のマイノリティ集団になってからは、徹底した秘密主義が貫かれてきた。

そして、イスラム教で多数派のスンナ派から圧迫を受けてきた。

19世紀にはイスマーイール派との抗争に勝利して、居住地域を拡大させた。

だが、フランスがシリアを支配すると、状況は一変した。

シリアの諸宗派の分断を図るフランスは、アラウィー派の国をつくり、アラウィー派の若者にシリア軍の中枢を担うようにした。

1940年代にバース党が設立されると、世俗主義で出身宗派を問わない同党には、アラウィー派の人が多く入党した。

ただし、アラウィー派の宗教性がバース党の政策に反映されるわけではなく、逆に党の影響で世俗主義の信徒が増えてしまった。

バース党がシリアで政権を奪取すると、党と軍に多数の信徒がいるアラウィー派が、シリアで支配的な勢力になった。

アラウィー派は、同派出身のアサド政権を支えてきたが、それは宗教的な紐帯だけではなく、地縁・血縁・実利などの要因が絡み合っている。


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